作者の顔は見たくない

id:Lyno:20040930でドリにおける女子腐女子の違いについて言及していただきました。


そもそも私がドリ話をはじめたのは
腐女子というのはドリに馴染めないのだろうか?(自分の周囲がみんなそう)でも、ドリの内容は少女漫画のように陳腐なものが多いイメージあるけど、腐女子であってもその人の書くものがドリのように少女漫画で陳腐だったりするじゃん?(作品の上手い下手関係なく)そもそも、二次創作の大半はそういう作品なんだし(自分含め)そういう人の場合、ドリにも馴染めるということはないだろうか?」


というようなことを考えていたんですけど。
実際、ドリに馴染めるかどうかは腐女子腐女子関係なく
「自分の中の自分ルールでは、自分(もしくはドリを書く他人)が原作世界に入り込むのが嫌」な人かどうか、じゃないかと今は思っています。
うちの弟のように「ADVゲームで自分視点で動かすのが苦痛」な人ももしかしたらその範疇かもしれないし、非腐女子でも「ドリはだめでした」という人もいます。
でもまあ正直慣れもあるかと…私、少し慣れてきてやや平気になった気もします。
ADVゲームも「どうしてもだめ!」という人もいるだろうけど、数こなしているうちに平気になる人もいるのでは。


あと、指摘していただいてあらためて気付いたけど、腐女子はやっぱりカップリングが大事なんですね!
その相手が、どこの馬の骨ともわからんような「自分」だと、シチュエーションが足りないんですよ!もっといろいろこう、属性がほしい!
だから、「自分」が凄く細かく設定されてて、それがちゃんと作品内で意味をもって動かされていれば(あと、わたし的には、作者の顔が透けて見えなければ)ドリでも読めます。作者の顔が透けて見えるともうだめ。萎える。それって商業誌の作品でもそうなような気がします。


二次創作だってドリと同じように、受けなり攻めなりに作者の願望がものすごく投影されていたりします。そうじゃない人もいるかもしれないけど私はそう。もう、恥ずかしいくらい自分丸出し、願望そのまんま出てます。
しかし誰も私の自分語りとか願望とか妄想とかコンプレックスとかそういったウザいものをそのまま見たくはないですよ。
でもそれを原作内のキャラというワンクッション置くことによって読者は作者の顔を見なくて済むというか…


同人のほとんどの書き手はアマチュアで、技術も拙いから、自分の顔(願望)を見せずに読者を楽しませることができる人はそうたくさんはいない。ドリだとその形式上、直接自分の願望が表に出てきちゃうから、読者はうへえってなる確率が高いんだけど、カップリングもの二次創作、そして男性同士だけれども現実の同性愛とは違うファンタジー的な世界を用いると、ドリとして描くよりは、自分の顔が幾分後ろに隠れるんじゃないかな。それで、読者も安心して読める。


この話を友人にしたら

「作者の顔は見たくない」そうそう!そうなんだよ!!と激しく首肯しました。
すごくわかりやすかったです。
ドリだと主人公キャラに厚みが出せない分、そうなっちゃう。
キャラに厚みをつけようと思ったら結局、オリキャラになってしまい、ドリっぽくなくなる。
ドリ話の「自分」て結局のところ私でもニュートラルな第三者でもなく、その話に都合のいいキャラ=作者の願望丸出し世界の一部、なわけですよ。
作者の願望という世界に空白があいていて、そこに「自分」を入れるんだけど、その空白はもう作者の型をしていて、そこに私が入っても全然型に合わないのね。
なまじ空白だから何を入れてもいいんですよ、という体裁なだけに、居心地悪くてしょうがない。だから、弟さんが言ったように「自分が侵害される」気になる。
でもその空白にある程度目鼻がついていると、かえって安心。
て感じなんじゃないかと思いました。


共感とか感情移入とかって、作者の生の部分にはできないんですよね。
だって私はその人じゃないし。
物語とか、キャラという形で客観化されていないとだめなんだと思います。


読者も「作者の願望丸出しのラブロマンス」を見せられていると思うとすごーく萎えるわけですが、女性向け同人界における、実際の同性愛とは違う、現実味のないある種ファンタジーとも言える男性同士の恋愛世界というフィルタを通すと、そのめくらましの大きさによって、作者の願望が作品の表に出てきにくい。だから受け入れられやすい。
ドリもカップリング二次創作も、自分の妄想を叩き付けているという点ではまったく同じだと思いますが、ドリだと、「自分」を一から設定し直さないといけないので、不特定の読者の鑑賞に耐えるものにするのが、型の決まっているカップリング二次創作よりも難しいんじゃないかと思います。