尾崎南について本気出して考えてみたい


今、尾崎南の昔の同人誌を友人に借りて読んでいます。

1987年発行「独占欲」1988年発行「独占欲Ⅱ」
共に若島津健×日向小次郎作品の再録本。
1988年発行「さよならをゆるして」の三冊。


私は尾崎南の同人作品には商業アンソロジーでしかお目にかかったことがなく、商業作品は「絶愛」しか読んでいません。
今回初めて尾崎南同人作品をじっくり読ませていただいたのですが、
絵は、こんなこと言っちゃなんだけど、お世辞にも上手いとは言えない(でも昔アンソロに載ったのを見た時は下手だとは思わなかったので、単に時代の流れでしょう)
でも、強い個性と、表現したいことと、情熱が叩きつけられていて、非凡だなあと思いました。
「独占欲」は「十八歳になる前に出しておきたかった」という再録本。十六〜十七歳の尾崎南が一年で十二冊本を出した(それもほとんどが百ページ級)、その中からの再録本です。
私は尾崎南がそんなに若い頃からそんなに活躍していたのだと知って、ちょっとびっくりしました。


田舎の子どもだったので、東京の大きい即売会なんて全然行ったことなかったし、大手の本もほとんど買ったことなかったので、当時の同人シーンなんか全然知らないのです。
小学校四年の頃、初めて手にした「アニパロコミックス」は、巣田祐里子さんが表紙を描いていて、それがとてもかわいくて、子ども心に「なんて洗練されててしかもかわいい絵を描く人だー」とメロメロになってしまったのですね。更に巻頭は確かJETさんのすごーく絵の上手いルパンの話で、小学生のおこづかいには苦しかったんだけどドキドキしながら買ったのでした。ああ、「アンドナウ」だったんですね。


尾崎南はアンソロでちらっと見かけたことがある程度、特に好きだと思うこともなく(アンソロで見た作品も載ってて今回久しぶりに読んだけど、あれだけじゃ伝わらないですよ!)私はどちらかと言えばアニパロコミックスの描き手さんが好きで(巣田祐里子浪花愛など。浪花さんは未だにファンで、同人誌を買い続けています)当時はお金がなかったこともあり、買うのは本屋で手に入る商業雑誌、アンソロのみで、ほとんど同人誌は買っていませんでした。
(でも尾崎南の同人誌借りた友達はタメ年なんですが…うーん、早熟ですねあなたは。さすが都会の子どもは違うな)


尾崎南の同人作品は、物語というよりは、叫びです。
「絶愛」の南條(=若島津)も歌ってましたが「どうしたらいい」という葛藤が作品の根っ子にあります。


なぜ尾崎南がカリスマ的な支持を得たかと言えば、彼女の作品が当時の腐女子の葛藤みたいなものをそのまま表しているからではないでしょうか。


男同士でくっつけるという手法でいったん落ち着いたものの、
じゃあ次はどうしますか、と聞かれるとわからない。
結局二人はどうなるんですか、と考えると答えが出ない。
その疑問を一身に背負ったキャラが若島津なのではないかと。
(だからリアルタイムで人に借りて尾崎作品を読んでいた友人(非腐女子)は尾崎作品における若島津のあり方に違和感を覚え、議論をした覚えがあるそうです)


「絶愛」読んだ時も思ったけど、結局
「どうすればいいんだかわからないんだよ!」と叫び続けてるんですよね。
どこに着地すればいいのか、これは本当は間違ってるのか、そういう尾崎南の内から出てくるものがそのままダイレクトに表現されているからこそ、多くの女子たちの心をつかんだんだろうなと思います。


で、そうした疑問や葛藤が「マーガレット」に持ち込まれた「絶愛」が腐女子でない一般の女子にも熱く支持されたという事実は、不思議でもあり、当たり前でもあるのかなと思います。
腐女子という方向に行かなくても、こうじゃなくて、何かが違っていて、でもどうすればいいんだかわからないんだよ!という尾崎南の叫びが、世の女子たちの心に届いたのですね。
そう思うと、何だか私は感動します。

そっちも欲しい


翻って、現時点で「ボーイズラブ」というライトな表現が確立し、受けキャラが女になっても別段問題のない、少女漫画のヒロインを男に変えただけのような、お手軽とも映るタイプの作品も強く支持されるのは、男同士という手法だけで一瞬救われても、現実に自分に突きつけられている世間一般の女性像を打破して、自分なりの幸せの形を模索するのは、物理的にも、精神的にも、大変な作業です。自分自身も、他人をも、見つめなければならない。それはとても辛くて苦しい。だから尾崎南作品の若島津だって、「どうすればいいんだ!」と叫ぶわけで。


だから、世間一般で幸せとされる男女のカップルを模した、でも「男同士」という精神的な逃げ場を作った「ライトなボーイズラブ」の世界をもキープしておきたいんじゃないかと思うんですね。
「そっちも欲しい」んだと。
かわいいと言われ、攻めキャラ(=男性)に甘え、甘やかされ、愛され、庇護され、それが幸せなんだ。そうじゃなければ、今の自分はどうなる。

女性化の謎


「女性化」(男性だったキャラが女性の体になってしまうのではなく、もとから女性キャラであったとして描かれ、攻めキャラと恋をし、結婚したりする)が最近非常に増えたような気がするのも、それの一環じゃないかと私は思っています。


私は、女体化(男だったのが女の体になっちゃう)は嫌いじゃないんですが、女性化を書きたい人というのはなぜそう思うんだろう?と疑問に思っていたのです。
ある日、ある女性化の書き手さんが、女性化ものを書く理由に


「原作で幸せになれない(=男同士だから)二人を、幸せにしてあげたい」


と本気で語っているのを見てしまい、物凄い嫌悪感を抱いてしまいました。


いや、原作での二人は別に愛し合ってなんかいないし、お互い切磋琢磨し高めあい全力で戦いあうライバルだってだけですから!
二人とも別にそんな形で幸せにしてほしいなんて、これっぽっちも思っちゃいませんがな!!
第一、男同士じゃ幸せじゃないんか!男女で、恋愛して、指輪なんか買ったりしちゃって、表で仲睦まじくデートして、やがて結婚して、子ども生まれて、そんな風に「幸せにしてあげたい」?ハア?



…いや、もちろん女性化作品を書いている全ての方がそうだとは思いません。皆さん、いろんな意図や思いがあって書かれているのだと思います。たまたまその人がそういう人だったというだけのことでしょうが。それにしても。
いや、絶対私がまだ気づいていない、女性化を書く楽しさ、魅力、そういうものがあるに違いない!


ああ、だいぶ話がずれてきてしまった…女性化についてはまだあまり明確でないので、またゆっくり。

高河ゆん作品が好きな私


また話が少し戻るようなずれるようななんですが、


私は高河ゆんの作品が好きなんです。
彼女の同人作品はほとんど読んでないんですけど、商業作品はほとんど読んでます。
(最近のは読んでない、いつか読みます)
私はずーっと、なぜ自分が高河ゆん作品が好きなのか謎だったんですが、


尾崎南が「どうしたらいいのかわからない!」なら
高河ゆんは「私は、それが一番大事だっていうことを知っている!だからだいじょうぶなの!」なんじゃないかと。

それ、っていうのは、おのおのが一番大事だと思っている、譲れない何か。
愛だったり、信頼だったり、妄想だったり、他人から見たら異常だったりかわいそう
だったりすることもある何か。

作品に出てくる人たちはみな非常に揺るがない何かを持っていて、それを他人に語ることを恐れない。
私はこうだ、誰に何を言われようともこうだ、というのが最初からはっきりしている。
だから、良くも悪くもあんまりキャラクターに成長は、ありません。
ある種「閉じた世界」ではあると思います。
成長していくと、本当は自分がずっとそこにいちゃいけないんだとわかっているんだけど
彼女の作品は「そこにいてもいいんだよ」と言ってくれる(ような気がする)


アーシアン」のちはやはコンプレックスの固まりで、高河ゆんキャラにしては自己肯定感薄いんだけど、だからあの作品が一番支持されているのではないかと思います。
「源氏」の主人公の克巳は自己肯定感の固まり(笑)なので、嫌いだという人も多かった記憶が。

追記:自己肯定感というよりは「自己完結感」の方が近いかも。
   だから読んでムカつく人はムカつくだろうなーと思う


どうして私は彼女の作品が好きなんだろうとずっと思っていたんですが
たぶん「私は知っているんだ、それが一番大事だということを。だから何があっても揺るがない、不幸せじゃない」といわれると、昔の私は、とても安心したんだと思う。
だから彼女の作品が、私は好きなんだと。


長年の謎が解けたのでした。


ああ、激情のままに一気に書いたらなんかとてもまとまりのない内容になってしまった…<いつもです
尾崎南の作品に関しては、もうちょっと読み込んでみたいと思います。
もっといろいろ書きたいことあるんですよ。トークなんかから伝わる当時の空気とか。トークは熱いです。とても。



そして、尾崎南の若島津と高河ゆんキャラが会話をしたら
きっと話が通じなくて若島津ブチ切れするだろうとか、アホなことを考えた。