「アカギ」の価値観 〜鷲巣さまにキュンキュンする理由

先日、MAD職人仲間で話をしていて、「鷲巣さまをかわいいと思ったことがない」などという衝撃の発言を耳にし、はじめて、そのような愚鈍な輩が世に存在することを知った次第。

思えば、アカギの単行本を読んだ時点で、アニメを見た時点で、鷲巣さまが愛らしいなどというのは当たり前のことであった。普通に、最初に一読した時点で、「この人はなんてかわいらしい人なんだろう」と思うのがごく一般的な反応であるはずだった。事実、アカギをすすめた友人たちも皆、鷲巣麻雀編に入るや否や、アカギがどうこうよりも「ちょwwwwwwww帝王カワユスwwwwwww」と鷲巣さまの一挙一動に目を奪われていた。まさしく「ああっ鷲巣さまっ」状態である。

あんなにわかりやすいテキストである原作からそんなことも読み取れない凡夫以下の下民どものために、鷲巣さまの愛らしさについて、今更ながらではあるが、軽く説明していきたいと思う。
くっ…馬鹿馬鹿しいっ…誰でもわかることをいちいち説明するこの徒労感っ…!おそらくこの文章は、ごく一部の、ものの道理のわからない愚民以外の、世の多くの民が読んでも「わかってるよそんなこと」「激しくガイシュツ」「新しい解釈はまるでないな」と感じること必然っ…

なので、鷲巣さまの魅力をただ羅列するのではなく、『アカギ』の主人公である赤木しげるから見た、それまでの相手と「鷲巣巌」の相違点などを述べていきたいと思います。まあ、以前にも何度か書いたことの焼き直しになりますけど。

(*アニメは原作をもとに作られているので、ここではあえて原作の鷲巣さまの愛らしさに的を絞って考えてゆきます)

若干、前振りが長くなりますが、ご容赦を。


『アカギ』は『天』と違って、赤木しげるが主人公である。
当然、赤木しげるのものの考え方、価値観が作品の中で重視されることになる。
これが『天』であった場合、赤木しげるのような神がかった天才ではない人間、天やひろ、原田、その他キャラクターの価値観も、作品の中で「どれが最も正しい」とされることもなく、揺らめいた状態にある(作者のアカギ萌えによって、かなり赤木の価値観が重視されてはいるにしろ)。だが、『アカギ』は真に赤木しげるが主人公であるがゆえに、他キャラクターの価値観…(仰木の「そんな肚じゃおまえは異端どまり」「築け」など)よりも、赤木しげるの信じるもの、求めるもの、その価値観が中心になって進んでいく。

アカギが他人と対峙する時、何を一番重要視しているか…何に最も価値を見出しているか。
それは「不合理に身を委ねられるか」。そして、それによって出た結果に自分で責任を取るかどうか、である。麻雀の強さ弱さは、実はあまり重要ではない。
『アカギ』のベストバウトとしてよく挙げられる対・市川戦、確かに市川は『アカギ』作中で最も手強い雀士であると推測される。
だが、アカギは初対面時から市川を「偽物」であると予感している。合理性を最も重んじる市川は、たとえどんなに強かったとしても、アカギの価値観では「偽物」なのである。合理性、確率、理の勝る麻雀を、アカギはよしとせず、それらを武器とし、また拠り所として戦う相手、市川、平山、浦部を「偽物」「凡夫」として、ことごとく退けてきた。
逆に、たとえ麻雀は弱く平凡な人間であっても、断崖に向かってブレーキを踏まない一手を自分で打った南郷(自分の命がかかった勝負を、通りすがりの初心者中学生に代打ちさせてしまうあたりが南郷の最も非凡なところだったもしれないが)や、先輩に麻雀でむしられたことをアカギの責任にせず、「いくらか戻してやるよ」と渡された金もつっぱねた治には、アカギの態度は冷たくない。

「誰よりもノルかソルかをしてみたい」(『天』2巻より、天の赤木評)アカギは、相手が強かろうと弱かろうと、「勝負」がしたいのである。

そんなアカギの前にあらわれたのが、帝王・鷲巣巌である。不思議なことに、市川に対しては初見から偽物扱い、「俺の同類などいない」と切り捨て気味なのに対して、鷲巣に関しては、まだ出会ってもいないうちから同類呼ばわり。

(以下、『アカギ』8巻冒頭より。太字強調は筆者による)

心が動いた…
人に死まで負わせる…… そのギャンブルの仕掛け
そして なにより そんなものを強いる鷲巣巌という男に
……… いうなら ……
嗅ぎとったのだ 
この 鷲巣に 自分と同じ匂いを……


飽いている……!
俺同様 この男は 飽いている…!
(略)
その成功の 突端…… 頂きで ……
ただひとり 絶望的に………


死ねっ……!
死ねっ 死ねっ……! 死ねっ…!
死ぬことが 至福だっ……!
あんたの 成功し続ける人生……
それが……
もう 賞味期限切れ……
ゲームオーバー……


もう おまえは そこから 
「酔い」を得られない
切り換えが必要なんだが…
しかし…

おまえには 無理……
じいさん……

さぞ 苦しかろう……


おまえは生きながら焼かれる大蛇だ……
のた打つ……!!
(略)
まだ…
まだ 何かが 欠けている………
まだ 何か あるはず………
まだ…


ねえっ…!
あっても あんたの「成功」じゃ 得られねえっ…!
死ねっ…! 異端者っ ……!
それが 唯一 救い…
そう観念した時 ……… かろうじて
救われる……!!


俺と同じ 理解されぬ者
はぐれ… 狂人…
同類よ………!!


すごく長い引用になってしまいましたが、このように、アカギは鷲巣と出会う前から、鷲巣巌という存在に尋常ならざる強い思い入れを抱いています。
アカギは今までの人生において「同類」(と自分で思える人間)に出会ったことがありませんでした。「俺と同じ理解されぬ者」という言葉には、天才であり異端者であるアカギの孤独がうかがえます。
この鷲巣への語りかけは、そのまま自分自身にも向けられたもの。異端の魂を持て余し、つまらぬ賭場で命を落としかけた自分も、鷲巣と同じように、人生に飽いている。どうしていいかわからず、自らを持て余し、倦んでいる状態。

もう おまえは そこから 
「酔い」を得られない
切り換えが必要なんだが…
しかし…


おまえには 無理……
じいさん……


さぞ 苦しかろう……


のくだりなんかは、会ったこともない相手にほとんどストーカーかよ?くらいの強い思い入れを感じます。ハイそんな言い方すると聞こえが悪いですね、鷲巣が人生に飽いていることへの共感、同類であるがゆえの同情、ほとんど優しいと言っていいくらいです。鷲巣はまさか、アカギがこんなことを思っているとは考えていないでしょう(同類扱いされるのも心外だと思いますw)。
アカギが鷲巣巌との勝負を承諾したのは、もちろん金が欲しいわけではない、ニセアカギの仇を取ろうなどとも思っていない、若者を殺していく怪物を狩ろうと正義を気取っているわけでもない。
ひとえに、自分の「同類」と出会ってみたかった。相見えたかった。その欲求が最も強かったのではないでしょうか。

先に説明しましたように、この物語の主人公であるアカギが最も重きを置いているのは「不合理に身を委ねられるか」。理が勝る麻雀では、アカギを満足させられません。アカギの「理外のセンス」を持ってして封じ込められてしまいます。
そこで彗星のように登場したのが、我らが帝王・鷲巣巌。
鷲巣の武器は合理性でも確率でも理でもない、持って生まれた「強運」「剛運」です。麻雀の腕自体はさほど強くないのに、とにかく引きだけがもの凄い。「わしがここで引く!」と言って本当に引いてしまう。怪物赤木しげるの血をかなりギリギリのところまで抜き取ったのも、全て鷲巣のツモあがりによるものです。
浮き世においてあれだけの成功をおさめた鷲巣巌は、もちろん頭脳も人より格段に切れることは疑いありませんが、それよりもなによりも、「神に底知れぬ寵愛を受けている」その強すぎる運が最大の武器です。

沿おう…!
久しぶりに…
わしの身に舞い降りた…
この予感……!
天啓に……!


考えてみれば
わしは その啓示を 灯明に
ここまで生き残ってきたのだ……!


そう…!
わしは…
理だけで勝ってきたわけではないっ………!


時に 人智を越えた 何者かに押され……
勝ち続けてきたっ……!


「剛運」という名の飛び道具、武器を最大限に活用し、鷲巣巌はこれまでの人生においても何度も危ない橋を渡り、幾多の駆け引き、大博打をしのいで、財を積み上げて来たのだと思われます。
だからこそ、そんな様を目の当たりにしてきた鷲巣の部下たちは、鷲巣にあれだけ忠実なのでしょう。福本作品に登場する「成功者である老人」キャラクターは何人かいますが、部下にあれだけ支持されているキャラクターは他にはいません。
カイジ』に登場する王キャラ・兵藤は、部下には「恐怖政治」的な支配を敷いており、恐れられ、時に強く憎まれています。対して鷲巣の部下は鷲巣を軽んじたり憎んだりする様子を一切見せません。「神であり王」と部下が迷わず口に出来るだけの、「奇跡」としか言いようのない成功が、それまで無数に繰り広げられて来たのでしょう。

そんな豪運を武器にして、鷲巣は、それまでのアカギの対戦相手なら絶対しなかった、出来なかったような「大博打」を、何度もやらかします。
運を持っていても、それに身を委ねられる、信じられる強い気持ちがなければ、博打には勝てない。
部下に差し込んでもらえる場面で、あえて回したり(←何度もやってる)、和了れるところで和了らなかったことも無数。それらの選択が、凡手を一転、アカギの命を狙える鬼のような手に成長させたことも。
そりゃあ、アカギも熱くならないわけがありません。こんな相手は、今まで誰もいなかったわけですから。
アカギと向き合うことに耐えられず「精神のどこかが壊れ」「ただただ安牌の連打」になってしまった矢木、「格付けが済んだ」あとには打てなくなってしまった市川などと比べると、アカギの闘牌にどれだけ心を折られても、隙が見えたと見るや、何度も精神を復活させては高らかに哄笑し、立ち向かってくる鷲巣は、やはりアカギにとって非常に特別であり、他に類を見ない相手なのだと思います。

アカギは「(相手が)自分の魂を切るように打つ牌」、「その魂の乗った牌」で和了ること、それを「人の心を喰らうようだ」「この世じゃ人の心が一番うまい」と『天』で発言しています。
そういう意味では、アカギは鷲巣の魂を食っているわけです。食っても食っても、まだその魂をぶつけてくる、神の化身・鷲巣巌。その魂の味はいかばかりか。
それを遂に食い尽くした時、鷲巣はどうなるのか。そして、アカギはどうなるのか。食い尽くしたあとに鷲巣がどうなるのか、自分がどうなるのか、それを誰よりも見たいと思っているのも、アカギでしょう。




さあて長い前振り、ようやくそろそろ本題に入りますが、鷲巣巌の魅力、愛らしさの源とは。

生まれ持った運の強さ、それに由来する奔放さ、自由さ。それが鷲巣巌の最大の魅力です。

こちらid:mikaki_molly:20070804で言及していただいたんですが、


鷲巣さまの魅力、それは、オリンポスの神々 的な魅力だと。
鷲巣さまの魅力って・・・ 帝王であって覇王であって、ノーブルで、天上的であって。でも、「一神教」的なコードとも、ちょっと違ってて・・・
ほんなら多神教? やおよろず…っていうか、ギリシャだ!! みたいな。
「オリンポス」の語が浮かんだ瞬間、自分の中で、すとーん! と落ちました。
そっか、ここだったかっ、と。


ほんとう、鷲巣さまの魅力って、オリンポスの神々的なそれだと思う。ディオニュソス的とでも言えばいいのかしら。

福本作品の基本的な人間観とも関わっていると思うのですが、ものすごく原初的な部分での「人間」性の、発露があると思うんですよ。福本作品には。それがインパクトだし、あの、心を掴んで離さない魅力に、つながってると思う。

で、鷲巣さまはその福本キャラの中でもとりわけ、ものすっっごい「好き勝手」っていうか。

「自在」すぎて、読んでて、時々、呆然とするときがある(笑)

そのくらい、外からの価値観とか規範意識とかを振り切って「王」な存在で、で、それなのに(それゆえに?)ものすごく、ノーブル。自由自在、放埓、欲するところの指し示すままに、動く。もうよせってくらい、動いちゃう(笑)。 そんな鷲巣さまが、もう、ものすごく魅力的。それはなんというか、「生きてる!」ってことの魅力。そのいとしさというか、愛らしさっていうか。理屈を超えて「ラブい…!」って思っちゃう。その魅力って、オリンポス的な、ギリシア神話的な脈に、通じるなあと思うのでした。福本作品の根の価値観には、そういう視座での、或る意味での人間賛歌が、あるんじゃないかなと思う。


…まあオリンポスはともかくww(いや反対意見ではありませんが)、鷲巣さまの魅力が「好き勝手」「自在」である、というのは、大いに共感するところです。
どうしてそうでいられるか、というのは、それこそ「神から底知れぬ寵愛を受けている」からであって、人間、努力しても鷲巣巌にはなれませーんっ…!!。生まれつきだから!しょうがないから!だって帝王だもん!
普通の人間には「そこまで自己を肥大させることは出来ない」のですが、それが出来ちゃう、自己を思う様肯定できちゃう屈託のなさ、だからこそ、鷲巣巌はひどく魅力的なキャラクターなんですね。美少女がどうして美しいか、それは美少女だからっていうのと同じ!生まれつき!鷲巣さまは鷲巣さまだから、カワイイ!!
あとmikaki_mollyさんは以前(ちょっとどのエントリだか失念しましたが)確か、「鷲巣さまの動きって小山ゆうの漫画のキャラクターっぽい」と言及されていたこともあって、その指摘にも膝を打ちました。すげー似てる。っていうか、福本先生のあの律儀な全身の描き方加減それ自体が小山ゆう先生の描き方に似てる。「お〜い!竜馬」のはしゃぐ武市半平太みたいなアレだ。
そんな風にはしゃぎまくる鷲巣さまを堪能するのが「鷲巣麻雀編」の大いなる楽しみのひとつ。対するアカギはほぼ動かないし、あまり喋らない。主人公で、その場にいるのに、ほとんど言葉を発しない回などもままあり(18巻なんか、モノローグ含めて台詞らしい台詞はほぼゼロ)、それがアカギの存在の不気味さ、悪魔っぷりとして機能しています。鷲巣からすると、そんなアカギは非常に不気味に、それこそ本当に悪魔が降臨したかのような印象を受けるのでしょう。
アカギの方はと言えば、鷲巣の生い立ちからその一生について、ある程度の知識はあります。鷲巣が帝王であっても、結局は運命にあらがえないただの人間だということもよく知っているわけです。
ですが、鷲巣は、自他共に認める「神に愛された剛運の持ち主」であるがゆえに、突然あらわれた、素性もまるでわからない、人の心を読むような麻雀を打つ若者が、真実、神の化身である自分をおびやかす「闇からあらわれた悪魔」のように思えているのではないでしょうか。
そんな悪魔を前にして、何度煮え湯を飲まされても、再び自分のペースを回復し、あそこまで弾けられる、爆発できる、はしゃぎ回れる鷲巣さまはやっぱり非凡な精神の持ち主だと思います。いったい、どんだけ神に愛されて育ったんだと。鷲巣さま、神に愛されすぎ。愛されて育った人間は強いです。愛を信じることが出来るから。だからこそ、鷲巣は折れずにアカギに立ち向かえるのです。

『アカギ』『天』を通じて、アカギに勝利した、と言えるのは天貴史と(エラーボーンヘッドを含むとは言え)原田克美だけなんですが、その二人が勝った時も、「勝たせてもらったという感じ」もしくは予想外のラッキーによるもので、むしろ勝った方が青息吐息。とてもはしゃぐ余裕なんかありません。
特に『天』では息詰まる緊迫感、緊張感が場を支配しており、リラックスしているのは赤木しげるだけ…という場面がよく見られますが、とにかくみんな表情を出さないように出さないようにしてるのに、鷲巣さまは、異常に表情豊か!「そんだけ顔に出てたら、誰だってわかっちゃうでしょイーピン待ち!」と、麻雀を良く知らなくても突っ込みたくなるその素直でダイナミックな感情表現、これが面白くて福本先生も連載を引き延ばしちゃったんじゃないかっていう(*ポジティブシンキング)。「『自在』すぎて、読んでて、時々、呆然とするときがある(笑)」という、そんなところが、鷲巣巌の魅力の核(コア)。

鷲巣巌、齢75にして、そのあまりの自己肯定振り、溢れる自信、屈託のなさ。アカギに勝ったら、興奮しすぎて本当に死んじゃうんじゃないか。常にハイテンション、そんな強い感情の発露が、他のキャラクターを圧して、目を引き、愛おしく感じられるのです。「ラブい!」っていうのなまさにそれな。鷲巣さまは、らぶいっ…!!!
17巻で、ムダヅモなしでどんどん牌を引き入れていく鷲巣の熱量、エネルギーの上がり具合を見ていると、もともと運が良い、もともと神に愛されている、というよりは、その屈託のなさを神が愛しているんじゃないかとも思えてくる。だからこそ、わがままになればなるほど、キャッキャ好き放題すればするほど、神に愛され、運が上昇する。
アカギは鷲巣と「同類」ではあるけれど(まあそれもアカギがそう主張してるだけなんですけどw)、似てはいない。
作中でアカギが鷲巣のことを「太陽」と評している通り(言っちゃうかっ…臆面もなく、そういうことをっ…!!)、鷲巣は陽性。ポジティブ。アカギにはそういう(神に愛されてしまうような)屈託のなさ、明るさは、ない(『天』のアカギになると、年を取ったせいか、多少そういう感じも出てきますが)。その代わりに、全てを、太陽をも覆い尽くす「闇」と手を組んでしまえるのがアカギ。これをアカ鷲と言わずして何と言おう。

アカギ 〜闇に降り立った天才
ワシズ 〜神に愛された天才

この二人の戦いなわけです。

たとえば 麻雀だ…
世の中には頓狂な奴がいてよ
こんなラチのあかねえ遊戯に…
自分の分 こえた大金 人生さえ賭けちまう奴も
いるのさ…


まあ…そんな奴だから…
頭は悪いんだけど……
勝ちたい気持ちは
スゲェーもんだ…

(『天』2巻より 赤木の台詞)


鷲巣さまって、ものすごく、バカなんですね。そりゃもう、とてつもなくバカ。ありえないほどバカ。頭が悪いという意味でなく、バカバカそのもの
でもそれはアカギも同じ。アカギも、それはもう、大バカバカもいいところ。どうしようもない大バカ同士で、もう足掛け十年も(作中時間は数時間ですけど)麻雀やって、和了ったの和了らないの、取ったの取られたのやってるんです。割れ鍋に綴じ蓋。おまえらほんとお似合いだよ。一生やってろ。安岡さんと仰木さんが時々「もうおうちに帰りたい…」って心底思ってるっぽいところが、お気の毒さまって感じ。

ありえない勝負に命を投げ出し、全財産を賭け、その上で理に逃げず、安心を選ばず、己を信じて一世一代の大博打をうつ。稀代の大バカになれてしまうその瞬間を、アカギはとても愛しているのだと思います。


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ついでにこれも置いときます。

こんなに近くで…w アカギと鷲巣のボイス入りver.