赤木しげるドリ


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 ようやく屋根のある場所に走り込むと、濡れたシャツが背中にべたりと貼り付いた。
 舌打ちする間もなく、びしょ濡れになった頭から水が滴る。薄暗い階段を駆け下り、背後の嵐を振り返った。


 予報では荒れ模様とは言っていたが、いくらなんでもこれはない。
 黒い雲は何の前触れもなくあらわれ、雨どころか、台風なみの暴風まで叩き付けてきた。
 カサはとうの昔に飛ばされた。ほうほうの体で逃げ込んだ先は、初めて通る裏通りの小さなビルの脇、地下に続く、狭い、汚れた階段だった。
 5歩ほど下りて立ち止まると、階段のどん詰まりには、曇ったガラスに中が良く見えない、喫茶店風の扉がある。看板も何も出ていないし、店の名もない。
 そろそろと近づいて、薄目で店の中を覗き込む。
 既につぶれてしまったのかもしれないが、暗いぼやけた視界の向こうに、わずかに灯りがともっていると見える。どちらにしろ、営業中ではないようだ。コーヒーが飲めるところでもあれば、時間をつぶせると思ったのだが。あてがはずれて、狭い壁に手をついた。
 厚いガラス越しに、枯れかけた大きな観葉植物が映る。重そうなドアを叩いてみようという気にもなれない、うらぶれた雰囲気が漂う。夜逃げしたあとのようだ、と勝手なことを考えた。


 そんな無遠慮な品定めを咎めたかのように、突然、目の前の扉が開いた。
 カラン、というドアベルの音と共に出て来たのは、暗い色のスーツに、夜なのにサングラスをかけた男だった。
「んだ、てめえは…」
 思わず一歩後ずさりかけて、階段に足をとられそうになる。
 小心な心臓が早鐘のように鳴る。どうやら、まずいところに入り込んでしまったらしい。恫喝するような態度のその男は、近くで見るとまだ若いが、いかつい顔立ちに厚い胸板、絵に描いたようなヤクザの風体だ。
「いや、雨がひどくて、ちょっと雨宿りさせてもらってただけで」
 自分ではこれ以上筋の通った言い訳もないだろうと思ったが、相手はまるで意に介さない。どこからどう見たって、ただの一般人にしか見えないと思うのに。
 男は随分と気が立っているらしく、こちらの言い分を完全に無視した。
「雨宿りだあ?雨宿りで偶然こんなところに来る馬鹿がおるか」
 もう出て行きますから、と逃げるように階段を上りかけたのに、素早く腕をつかまれてしまう。
「本当に、本当になんでもないんです、もう帰ります。出て行きます」
 そう叫んだが、男はとりあわない。
 引きずられたまま、目の前の扉が乱暴に開かれた。雨と風の音が遠くなって、途切れた。



 中に入るなり、ひやりと空調の風が濡れた体を冷やす。
 いやに寒い場所だった。
 扉の向こうは思ったよりも広く、天井は低い。うすく煙草の煙が漂っているのがわかる。奥にあるどっしりとしたテーブルの上を、オレンジ色の照明がやわらかに照らしていた。

(麻雀?)

 テーブルの上面にはグレーの布が張られ、麻雀の牌らしきものが並んでいる。どうやらゲームの最中のようだ。
 雀荘か、と思ったが、だだっ広い室内には、その大きな、仰々しい代物以外に卓は一つもない。


「なんだ、騒々しいな」

 静かな、低い声が耳に届いた。
 自分の家の庭先で、子どもが他愛ない言い争いをしているのを見つけたような、そんな気安い口調だった。
「なんや、そのガキは…」
 一転、殺気立っただみ声が、静寂を破る。サングラスの男のボスなのか、テーブルの向こうに座った男が、でっぷりと肥った体を椅子からはみ出させ、こちらを一瞥した。小さな丸い目の上には、ほとんど眉がない。
「階段とこでうろついとったんですわ。雨宿りとか言うて、中を覗きこんどりました。怪しい奴です」
「の、覗いてなんかいません。本当に、雨宿りしてただけです」
 必死で言い訳をする。情けなく、足ががたがたと震えた。とんでもないことになってしまった。自分の顔から血の気が引いているのがわかる。
 奥のテーブルの上を照らした灯り以外には光のない、暗い広いこの空間には、よく見るとたくさんの人間がいた。
 テーブルを囲んでいる四人に加え、部屋のそこかしこに、サングラスの男と同じような風体の男たちが、隙のない表情でこちらを眺めている。
 ドラマや映画で見るより、まるでサマになっていない光景だった。格好だけ統一した不揃いな男たち、つぶれた顔。歪んだ顔。スーツを着てきっちりとネクタイをしているのに、なぜか崩れたように見える身なり。中には歯抜けのように私服の男も混じっていて、それがまた冴えない、泥臭い様子だった。
 なのに一様に、誰もが目の奥が鋭い。眉の筋肉の下に貼り付いたような、いくつもの三角の白い目の玉に射抜かれ、この場に座り込んでしまいたくなる。
「雨と風がおさまったら出て行こうと。てか、あの、もう、すぐ、出て行きます。お邪魔しました。すいませんでした」
 土下座さえしたいくらいに頭を下げ、早口にそうまくしたてた。
 緊張した空気に応えはなく、指先の震えが止まらない。途方に暮れた、その時だった。


「おい、素人をあまり虐めんなよ」

 最初に聞いた、静かな声だった。おそるおそる顔をあげると、ちょうど扉に背を向けた位置に座っていた人物が、椅子を半分回転させ、膝に頬をつき、斜めにこちらを見ている。
 年の頃は四十か、もっといっているだろうか。髪は随分と白くなっていたが、そこまでの年齢には見えない。
 痩せた肩に光沢のある生地のジャケットを引っ掛け、地味とはいえない柄のシャツの胸元をだらしなく開けていたが、なぜか下品になってはいなかった。見るからにヤクザというのでもないが、堅気の人間でもなさそうだ。
「どう見たって、こりゃあ単なるその辺の兄ちゃんだろうよ。サツでもなけりゃ、関係もなにも、ありゃしねえ」
 その人物は鼻先で少し笑い、向かいに座っている、体の容積で言えば数倍はありそうな男に言った。
「三下まで、これまたえらいビクつき様だなあ、西よ。こんな通りすがりの素人つかまえてきてガアガア騒ぐほど、あんた追い込まれてんのかい」
 そう言い放ち、目を細める。
「ザマあない」
 うっすらと、目元に笑い皺がにじんだ。
 肥った男は強く気分を害したようで、椅子を倒さんばかりの音を立てて着席する。その様に身がすくんだ。挑発した方はまるで平気な風で、脇に置いた煙草を片手で一本抜き、ゆったりと火をつける。
「あんた」
 自分が呼びかけられたのだと、一拍置いてから気付いた。はい、と発した声が裏返る。
 その人物は、口の端に煙草をくわえたままで、面白そうにこちらを見ていた。
「まあ、そう緊張しなくてもいい…悪かったな。くだらんアヤつけて」
 落ち着いた、人を脅すようなところのない言葉に、急激に体を安堵の感情が流れ落ちた。
 この人なら、あのよくわからない言いがかりから自分を救ってくれるに違いない。祈るようにもう一度頭を下げた。
「とんでもないです。もう本当にいいんです」
「外はひでえ天気かい」
「はい、雨も風も、台風みたいで」
「それでそのナリか」
 ずぶ濡れになっていた自分を、今更に思い出した。安くはなさそうな絨毯に、点々と泥汚れが跳ねている。
「すいません、すいません」
「謝るこたあない。関係ねえもんを、こんなとこまでわざわざ引っ張って来たバカが悪いんだ」
 サングラスの男が、震えたように身を縮めた。ついさっきまでの威勢の良さは微塵もない。
 どうやら、この人はこの場の実力者らしい。なんとか無事にここを抜け出せそうだ。
 安心感が胸に溶け、忘れていた部屋の冷たさと濡れた服を、不意に体が思い出した。


「…っ!!」

 音のない空間に、盛大にクシャミの音が響き渡った。反射で鼻をすすった瞬間、あまりの間の悪さに冷や汗がにじむ。
 場にそぐわなすぎる跳ねた音に、吹き出したように笑ったのは、静かな声の主だけだった。テーブルについた男たちは、声も立てずに息をひそめている。肥った男などは、親の仇のようにこちらを睨みつけていた。少なくとも十五人はいる、テーブルの周りに控えている柄の悪い男たちも、口をきつく閉じ、何かに耐えるように目を伏せたままだ。
「この部屋は寒いだろう。アツくなってる奴らがいてな。設定温度を下げてるんだ」
 痩せた男は、静かに煙を吐き、冷えた空気にまるで構わず振る舞う。
「おい、タオルかなんか持ってこい。それに、コーヒーでもいれてやれ」
 あわてて固辞したが、男は椅子を斜めにしたまま、こちらをじっと眺めて言った。
「まあそう言うな。雨が落ち着くまでゆっくりしていきな」
 今すぐにでも逃げ出したいというのに。そんな内心を見透かしたように、男は続けた。
「あんたの身の安全は、オレが保証しよう。取って食いやしねえ。ゆっくり、勝負の行方でも眺めていってくれ」



 ゲームはちょうど一区切りついたところだったようで、なし崩しに小休止の時間が訪れた。
 香り高いコーヒーが、こちらと、テーブルについた四人だけに配られる。
 とても香りを楽しむ気にはなれなかったが、お愛想に口をつけた。自分が今まで飲んでいたコーヒーとは別の飲み物のような、澄んだ苦みが舌に残った。
 どこからか椅子を持ってこられ、おっかなびっくり腰を下ろし、おどおどと周囲を見渡す。
 薄汚れて古びた気配だが、室内の調度はどれも高級そうなものばかりだった。だが、間仕切りの分厚いカーテンは、地下なのに日に焼けたように変色している。磨かれたどっしりとした柱には、あらわな傷やへこみがそのままで、いっそう不気味な感触がした。
「ここは昔、名の通った喫茶店だったらしい」
 コーヒーには口をつけず、男は水を飲むように煙草を消費した。
「そん時の名残なんだか、言えばマシなコーヒーをたてる」
「とても、おいしいです」
 そうか、と応える声は変わらずゆるやかで、波がない。


 男は、随分と親切だった。
 大判のタオルを借りて、髪の毛はあらかた水気を落としたものの、濡れそぼって絞れそうなシャツはどうにもならない。
 着替えるものは、と男がまた後ろに声を掛けたが、さすがにそれは用意がない。それではと言って男は、なんと自分の手荷物にあった、着替えのシャツを貸してくれたのだった。
 小さなボストンバッグから出てきたのは、つるつるした生地の黒いシャツだった。断る間もなく投げるように渡され、手に取ってみると、どうにも安物ではない感触がする。シルクかもしれなかった。
 何の気無しに裏を返すと、自分ですら名を知っているような、有名な海外ブランドのタグがついている。要らないからやるよと言われ、思わず声が大きくなってしまう。
「こんな高価なもの、いただけません…」
「高価?そうだったかな」
「だってこれ、アルマーニですよね。高いんでしょう。良く知りませんけど」
「貰いもんだからな。値段だとか、何とかいう服だとか、オレは知らん」
「貰いもんって…」
 すると、今まで貝のように押し黙っていた、扉側から見て右の位置に座った男が、ぼそりと口を挟んだ。
「貢がれたんでしょう。赤木さんは、旦那衆に、人気があるから」
 粘るような声が、あまり好意的ではないことがわかる。金縁の眼鏡をかけた、三十代半ばくらいのがっしりとした男だ。左手首には、高級そうな金の時計がちらりと覗く。派手な色のスーツに、金の鎖がよく似合ったが、陽の下に出るには、目元に険がありすぎた。これもどう見ても、ヤクザとかそういった類いの人間なのだろう。
 どうやら、自分を救ってくれたこの男は赤木さんと言うらしい。眼鏡の男の言葉を否定するでも肯定するでもなく、細い顎を気持ち反らせて煙を吐き出すと、貴金属もなにもない、細くやせた首筋に、わずかに萎んだような皺の影が刻まれた。
「赤木さんは、派手な手打ちよるからなあ。かなわんわ。わしらみとう地味に、地味いにやっとるもんからしたら」
 追従するように、肥った男がしゃしゃり出て来る。コーヒーカップの持ち手に通した指が、芋虫のようだった。
「地味、ねえ」
 そう言って、赤木さんと呼ばれた男は、テーブルの上、重ねたウェハースのように並んだ牌の一角を、ちらりと眺めた。その瞬間、肥った男と、眼鏡の男の間に、何かが生じて、ばちりと弾ける。肥った男はコーヒーを飲み干し、眼鏡の男は胸元の煙草を探って、火をつけた。きつい外国の香りが、その場に漂う。
 やにわに、奇妙な音が脇から洩れた。
 まるで存在がないかのように背を丸め、縮こまっていたもう一人の男が、小刻みに震えている。そこだけ、小さな地震でも起きているかのようだ。
「…っ、赤木しげるが出て来るなんてっ、聞いてなかったっ…!」
 テーブルを囲んだ四人の中では、一番年をとっているかもしれない。初老と言っていいだろう。気弱そうな眼差しに、幾分出っ歯の小柄な男は、手を握り合わせ、小さな子どものようにしゃくりあげた。
「おいおい、村上さん、泣いてる場合かよ」
「そうよ、あんた最初は勝ってたよ。盛り下げんでよ。辛気くさい」
 二人の男の煽りも、団子虫のように丸まった背中には届かないようだった。場はいっそう静まり返り、大の大人が、恥も外聞もなくすすり泣く声だけが、澱のようによどんだ。周囲に並んだ男たちの何人かは、たまらないといった様子で目をそらす。
 だが、当の本人、赤木しげると呼ばれた男は、相も変わらず、陰鬱な空気にのまれる気配はなかった。目の前で泣き崩れる男は視界に入っているのだろうが、視線はまるで動かない。そう思った瞬間、その目がじろりとこちらを見たので、息が止まる。
「着ねえのか。風邪ひくぞ」
 気がつけば、渡されたシャツを握りしめたまま、四人の男たちをただずっと眺めていたのだった。


 濡れたシャツを脱ぎ、奇妙な空気の中、ごそごそと黒いシャツを羽織る。着つけない、高級な生地がどうにも馴染まないが、文句をつけるわけにもいかない。少なくとも濡れたシャツを脱げたことは、有り難いと言えば有り難い。
 シャツには煙草の匂いがしみついていた。不思議と、不快感はなかった。


 小休止というには長い時間も過ぎていたが、誰も続きを始めようとは言い出さない。むしろ、それを恐れているかのような緊張感がただよう。
 並べられたままの牌の模様を眺めていると、赤木さんがこちらに向き直った。
「あんた、麻雀は打つのかい」
「いえ…」
「ルールは知ってんのか」
「ほとんどわからないです」
「ふうん。まあ、最近じゃあ、あんまり流行らねえからな」
「昔はほかに娯楽がなかったからねえ。どいつもこいつも、朝から晩まで打っとった」
「最近の若えのは、麻雀を知りませんよ。オレん時ゃ、ウエから洗礼受けんのが当たり前でしたけどねえ…」
 当たり障りのない話題に、安心したように食いついてきた眼鏡の男と肥った男を無視し、赤木さんは自分の前に並んだ牌をつまんだ。丸い模様が刻まれていた。
「ピンズ」
 意味がわからない、という顔が面白かったのかもしれない。赤木さんは次々と牌をつまみ、子どもに外国語を教えるように「ソーズ」「マンズ」と呟いた。呪文のようだった。
「兄ちゃん、本当に麻雀知らんのやな」
 肥った男が、半ば蔑んだような口調で言う。
「すいません、一度もやったことないし、ルールも難しそうで、よく…」
「一度おぼえたら、この味、忘れられんで」
 適当に愛想笑いを返すと、村上さん、と呼ばれていた出っ歯の男が、そろりと椅子を下りた。
「どしたい、村上さん」
「小便…」
「そうかい」
 眼鏡の男はやさしげな声を出したが、脇に控えていた部下らしい男にうなずきかける。
「張っとけ」
 小声での指示が耳に届いたのだろう。村上さんはびくりと腕を揺らした。下を向き、憔悴した足取りで部屋を出て行く。
「…妙な気起こされたらかなわんからな」
 一刻前とは打ってかわった冷たい声で、眼鏡の男が言った。
「でもまあ、首吊るってこともあんめえよ」
 肥った男が事も無げに吐いた台詞に、おかしいほど自分の体が震えた。気持ちの悪い汗が額ににじむ。軽い冗談にしては、タチが悪い。
 あまり考えないようにしていたが、このとても雀荘とは思えない隔絶された空間で、堅気でない男たちが部下を従えて打つ麻雀、ただの無邪気な遊びではありえない。
 素人の自分にさえ、多額の金、またはそれに類するものがかかっているのではという察しはつく。そうでなければ、こんな悲壮な、沈んだ空気は生まれまい。
「オイオイ、兄ちゃんブルってるじゃないの。あんまり脅しちゃまずいよ西さん」
「こりゃ口が滑ったわ」
 二人から、そらぞらしい笑い声があがった。それがなんだか、上滑りして見えた。
 あの笑いは、空元気ではないのか。この部屋に足を踏み入れた時から、赤木さん以外は、常にこの場を陰鬱な空気が支配していた。この二人も、例外ではなかった。
 たぶん、赤木さんはよほど麻雀が強いのだろう。そうでなければ、ここまで一人気楽な態度ではいられないはずだ。村上さんが「赤木しげるが出て来るなんて聞いてない」と言ったのも、それを証明している。
 赤木さんの余裕が、変に心強かった。考えてもみろ、いま自分を守ってくれているのは、赤木さんの口約束でしかない。赤木さんが負けて萎れて退場、ということにでもなれば、自分もただでは済まないかもしれない。
 そう思って、赤木さんの前にずらりと並んだ牌を祈るように見詰めた。すると、赤木さんは煙草の火を消し、椅子の背に腕をついてこちらを向く。
「なんだ、ゴミ手がそんなに面白いか」
「ゴミ手って…」
 麻雀の言葉は知らないが、なんとなく意味するところはわかる。
「赤木さん、勝ったんじゃないんですか」
「いや、この局は負けたよ」
 予想もしない言葉が、軽やかに頭の上に落ちてきた。
「役なし、ノーテンってやつだ」
 どくり、と自分の心臓の音が聞こえた。耳鳴りのように、脈が跳ねて木霊する。
「え、でも、赤木さん、…強いんですよね?」
 すがるように見上げるが、赤木さんは少し笑っただけで、何も言わない。代わりに、外野から声が飛んだ。
「堅気の兄ちゃんは知らんやろうがな、この赤木しげるって男は、こっちの世界じゃ有名な無敵の雀キチや。伝説の男、神域の男、なんて呼ばれとる、それはそれはエラいお人よ」
「そんな化けもんの前に担ぎ出された、オレたちは運がねえのさ」
 伝説の男。化け物。二人の男の言葉に揶揄する響きはあったが、そう呼ばれていることは真実であるようだった。軽い口調の裏側に、きしむ悲鳴に似た音が響いている。虚勢なのだ。そう思った。この二人も、本当は、恥も外聞もなく逃げ出してしまいたいのだ。
 まるで冗談のような形容詞を背負っているらしい、目の前の痩せた中年男は、眉ひとつ動かさない。見慣れない生き物を見るようにこちらを眺め、新しい煙草をくわえる。
「最近は年とってね。昔ほどのキレはねえよ」
 よく言うぜ、と叩き付けるように眼鏡の男が言った。右手が、いらついたように牌を弄んでいる。肥った男は、なおも自らを鼓舞するように、声を張り上げた。
「この人の伝説ってのは、まあ信じられんようなもんも仰山あってね。どっからどこまでが本当だか知れんのよ。13の時、初めて麻雀を打って、当時そこらでは一流と呼ばれていた男を倒した、とかねえ」
 いくらなんでもそれはないだろう、と反射的に考える。有名になった人物に、あとからそれらしい作り話をくっつけるようなものではないか。13といえば中学生だ。そんな子どもが、どうして一流の打ち手と打つことなんてできるだろう。
 わずかに弛緩しかけた空気に、低く、落ち着いた声が聞こえた。
「…あの時も、雨が降っていた」


 その一言に、場がゆがんで張りつめる。肥った男がごくりと息を飲み込んだ。
 驚いて、思わず自分から尋ねてしまう。
「え、13の時の話って、本当なんですか…」
「ああ。今はどんな話になってるか知らんが、大筋は間違いねえな」
 そう呟いて、こちらの目を真正面から覗き込んだ。まるで穏やかな顔をしているのに、気圧される。
「今のあんたみたいに、ずぶ濡れになって、雨宿りに手近な場所に駆け込んでね。そうしたら、そこが雀荘だった。借金の棒引きを賭けた勝負をしていた人の、代理で打ったのさ」
 肥った男が、耳障りな声で笑った。
「馬鹿言うねえ。どこの誰が、てめえの借金かかった勝負に、麻雀打ったこともねえ小便くせえガキ出してくるんだっつんだ。ありえねえんだよっ…」
 赤木さんはすっと目を細めて、一瞬、ひどく楽しそうな風に笑った。
「ありえねえな。そう、まともに考えりゃ、ありえねえさ」
 ありえない。ただのほら話だ。普通なら、誰もがそう思うだろう。なのに、この人のたたずまいに嘘はない。
「借金って、いくらだったんですか」
 得体の知れない恐怖より、興味の方が先立ってしまった。
「三百万…だったかな。倍にして、二百万出させたから…そうだ、三百万だな。もともとは」
 三百万円。想像もしなかった金額だ。13の子どもに代理に打たせるくらいだから、金持ちの道楽のような賭け事だったのかもしれないが、それにしても。
 無理に納得しかけた腹に、思いがけない一言が飛んだ。
「兄ちゃんは若いからわからんかも知らんが、当時の三百万つったら、いまの十倍や」
 信じられない指摘に、目の奥が軽く揺れた。三千万円。とても、道楽で賭けられる金額ではない。思わず、赤木さんの顔を見詰めてしまう。
「それを賭けていた人は、追い詰められていた…生命保険に入って、勝負に負けたらそれで支払う約束だった」
 昨日の天気の話をするように淡々と語られる話は、とても現実のものとは思えない内容だった。
「オレがそこに迷い込んだ時には、その人はもう、勝負を乗り越える強さを遣い果たしちまってたのさ。だから、どこの馬の骨とも知れんガキを引きずり込んで、麻雀を教えて、打たせようなんて気にもなったんだろう。まあ、狂気の沙汰かもしれんがね」
 肥った男が苦しげに笑う。信じたくはないのだろう、茶化すように膝を打った。 
「それで赤木さんは、その兄ちゃんに麻雀を教えて、代理で打たすのかい」
 急に指差されて、心臓が波打った。赤木さんは喉の奥で笑い、オレをちらりと横目で見る。
「あんたが打ちたいって言うなら、教えてやらんでもないぜ。どうする?」
 無言で激しく首を横に振ると、赤木さんは行儀悪く脚を伸ばし、牌を一つつまんで、放り投げた。
「まあ、そう心配するな。オレは人には打たせない。自分で打つさ」
「赤木さんにイチから教えてもろたら、兄ちゃんもエラい打ち手になるかもわからんぜ。どや、打ってみんか」
「すがるな、西よ」
 静かだった声色が、ムチのようにしなって、肥った体を打った。
「オレは、受けた勝負を他人に任せたりはしないよ。賭けたものも、それぞれオレと、あんたらにしか払えないもんだ」
 肥った男の顔が、ぐにゃりとへこんだように見えた。それはもちろんただの錯覚だったが、丸い贅肉の固まりのような頬が、奇妙に歪んだような、バランスの悪い表情になる。わずかに、息が荒い。
 かき回された空気の中、村上さんが、黒服に脇を固められ、部屋に戻って来る。待ちかねたように、赤木さんがテーブルに向き直った。
「さあ、そろそろ始めようじゃないか…じゅうぶん、息は抜けただろう」
 


 テーブルには布がはられているだけで、自動で牌を並べる仕掛けはない。四人は牌をかき回し、自分の手で積んだ。赤木さんの手つきにはいささかの澱みもなく、機械のように素早い。村上さんは手を震わせ、牌を何度も取り落とす。他の二人も、気のせいかゆっくりと、慎重に並べているように見える。
 この勝負には、何がかかっているのだろうか。
 三百万、いや三千万円でさえ、顔色も変えずに13の時に勝ったという赤木さんなのだから、それ相応のものがかかっているのだろう。それに、あとの三人の緊張振り。千万どころか、一億、そんな金額なのかもしれない。恐ろしかったが、変に胸は高鳴っていた。
 こちらから見える位置、赤木さんの前に牌がずらりと並んだ。これがこの場面、赤木さんに与えられた手だ。麻雀の知識のない自分には、なにがなんだか全然わからなかったが、前の三人は、なぜか赤木さんではなくこちらの表情をうかがった。
「あんたが麻雀を知らなくて助かった。後ろに立っている味方は、顔色でこっちの手の内をバラしちまうことがあってね」
 赤木さんが、茶飲み話でもするように呟く。なるほど、まるで表情が揺れない赤木さんの代わりに、自分の様子をうかがっていたのだ。
「まあバレたらバレたで、それもまた悪くはないんだが」
 余裕に満ちた言葉に、他の三人は空気も抜けない。
 麻雀というのは、最終的には得た点の高さで勝負が決まるらしい。点棒というプラスチックのバーが多い方がいい、ようだ。
 眼鏡の男の手元を覗き込むと、かなりの数の点棒がある。他の二人はよくわからないが、赤木さんは、明らかに眼鏡の男より、だいぶ少ない。
「オレが負けないか、心配してるのかい」
 背を向けたまま、赤木さんがぼそりと呟いた。この人は後ろに目があるのだろうか。
「今のところの順位は、この右の伊達男が一位、向かいの丸いのが二位、オレが三位、村上さんが四位、ってとこだ」
 意外な内容に息をのんだ。赤木さんはビリから二番だというのに、他の三人は何をあんなに怯えているのだろう。
そして、赤木さんはどうしてああも平静でいられるのだろう。
 内心の疑問に応えるように、赤木さんが言った。
「麻雀の面白いところはな…極めて極めて、相当の打ち手になっても、結局のところ、運が左右する要素があるってところだ」
「はい…」
「どんだけ沈んでても、ズブの素人でも、いい配牌さえ来りゃ、ひっくり返ることもある」
 全員が牌を取り終え、おのおのの手が並ぶ。引き返せない、自分の手が決まる。
「達人でも、刺されてトぶ。それが時々、痺れるのさ」
 赤木さんは並んだ牌を指先で軽く撫で、独り言のように呟いた。
「あいつらは伝説の男なんて抜かすが、やたらにキレてた昔に比べりゃあ、どうしたって力は霞む…今日はツイてない。そう感じた」
 トントンと牌を指先で叩く。その手はどうなのだろう。やはりツイていないのか、それとも。
「だから、あんたを招き入れた」
 え、と顔をあげると、愉しそうにこちらを眺め、牌を撫でる。その目が、何かに満ちた。
「変化と、間が欲しかった…ツキなんてもんは、流れで変わる。それが吉と出るか凶と出るか、高見の見物、していってくれ」
 


「なるほど、そんな算段だったのかい。あの赤木しげるが、えれえ親切こくんで、おかしいと思ったぜ」
「昔ぁスピードにまかせて、萎えた相手を搾り取るのがセオリーだったがね。年喰って、間あ取ることも覚えたのよ」
 何の宣言もなく、ゆるゆるとゲームは始まった。
 眼鏡の男が牌を山から引く。ちらりと見て、そのまま前に置く。肥った男が同じように引き、今度は自分の手に牌を入れ、端の牌を捨てた。どうやら、こうやって手を作り、形が揃ってあがったら勝ちであるらしい。
 麻雀がわからない自分にとっては、恐ろしく地味で盛り上がらない勝負だった。緊張感と裏腹に、わずかに眠気さえ覚える。だが、当人たちはいたって真剣だ。肩に力がこもり、滑稽なほどだった。
 そんな中でも、赤木さんはやはり、異様なまでに肩の力が抜けていた。
 村上さんが拝むようにして牌を取り、大きくため息をついて捨てたあと、豆菓子でもつまむように無造作に牌を取り、見て、捨てた。その牌に三人の視線が集中するのがわかる。
 一巡したが、特に大きな動きはないようだった。そのまままた眼鏡の男の番になる。
 沈黙に耐えかねたのか、牌を取って自分の手に入れたあと、眼鏡の男が重たく口を開いた。
「赤木さん、先月、宇都宮の方で、やったんでしょう」
「ああ」
「派手にかっさらったって聞きますけど、なんでその金…」
 妙なところで言葉が切れた。喉に何かが詰まったようだった。見れば、さっき軽口を叩いていた姿は微塵もない。ゲームは始まったばかりだというのに、涼しい部屋で汗をにじませている。口を歪めて、唇を湿して、やっと言葉をつないだ。
「その金…賭けなかったんですか」
「あんなものあ、もう全部遣っちまったよ。今は素寒貧だ」
「…少なくとも五千万って、ウチんとこのが言ってましたが」
「あぶく銭さ」
 五千万があぶく銭。いったい、どんな生活をしているのだろうか。
 あらためて、赤木しげるという男の、頭のてっぺんから爪先まで眺めた。
 貢がれたというあまり趣味が良いとは言えないスーツもシャツも、安物には見えない。だが、ものすごく金を持っていそうというわけでもない。
 眼鏡の男のように派手な時計や貴金属もつけていないし、さっき持ってこさせていた手荷物のボストンバッグは、古びて薄汚れた、どう見ても安手の、大量生産の代物だった。
 百円ライターで火を点ける煙草もありふれた銘柄で、ちょっと見ただけでは、まあ堅気ではないだろうが、何の変哲もないと言っていい、痩せた中年の男だった。
 だが、牌に向かった男の横顔を見て、胸を突かれる。
 真っ直ぐな鼻筋に、切れ長の目。顔立ちはよく見れば整ってはいたが(もっとも、そんなことを思ったのはここを出てしばらく経ってからだった)、偏っていた。なにが、と言って言えるほど、うまい表現が浮かばない。
 赤木しげるという男は、何かが前のめりに偏っていた。尖った鼻梁、細い顎、薄い唇がわずかに笑みをたたえているのに、なにを笑っているのか、なにを見ているのか、見当もつかない。煤けて皺を刻んだ肌に、今は薄気味の悪いハリがある。節の太い、長い指が、牌を寝かせてカチリと乗せた。
(あんなものあ、もう全部遣っちまったよ)
 その言葉が、もう一度浮かび上がった。
 今の赤木さんには賭ける金はない。では、何を賭けているのだろう。


 動きのないまま、七巡目。肥った男が牌を引く。思い通りのものが来なかったようで、太い指で、こめかみのあたりを頻りに擦った。顔には脂が浮き、てらてらと光っている。
「あんたら、長考派だねえ。おかげで半チャン二回ぽっち、エラい時間くっちまった…もっとテキパキ行こうじゃないか」
 挑発的な赤木さんの台詞に、眼鏡の男が突然声を荒げた。
「誰もが、あんたみてえなキチガイじゃねえんだよっ…!!」
 そうかね、と赤木さんは目を伏せて笑う。男は眼鏡を外し、額の汗を雑に拭った。気分が悪そうだった。
「おやおや、もうタネ切れかい。存外、仕込んじゃいねえんだな」
 肥った男が何か言い返そうとしたが、結局黙り込み、下を向く。
 村上さんが、引いた牌を見た。口元ががくがくと揺れる。少し迷って、目をつむって手の中に入れた。
 顔は蒼白になっていた。見ていて可哀相なくらいだ。負けたら、何を取られてしまうのだろう。莫大な借金でも背負っているのだろうか。それとも。
 赤木さんが牌を引きかけたところで、村上さんが、自分の牌を覆うように身を屈める。疲れ切った声が、台を這った。
「たのむよ。もう、勘弁しとくれよ。金なら払うよ。いくらでも集めるよ。こんなのはもう、もう」
 目に涙を浮かべて、指先を擦り合せ、必死に懇願する。
「なあ、赤木さん、終わりにしとくれ。何なら、遣っちまった五千万、用意するよ。それでなんとか、手え打ってくれねえか」
 押し黙っていた眼鏡の男が、他人の醜態にやや自分を取り戻したのか、横槍を入れる。
「往生際が悪いぜ、村上さん。乗ったのは、あんたじゃねえか」
「冗談のつもりだったんだっ…負けたって、金出しゃあ文句ねえだろうと…」
 その台詞に、なぜか赤木さん以外の二人が、重いため息をついた。
「赤木しげるが来るなんて、思わなかったんだっ…あんな、雲の上の人が、こんな馬鹿げた勝負に出て来るわけねえって、そう…俺あ…」
 ひいひいと泣き声が洩れる。
 その脇で、赤木さんは、何事もなかったように牌を引いた。ちらりと眺め、音も無く手に入れる。
「リーチ」
 点棒がぱしりと、場に投げられた。やめてくれえ、という金切り声が、不快に空間を横切った。


 赤木さんがリーチをかけたあと、次の二人の腕はいっそう慎重になった。眼鏡の男は癇症に額を指先でなで回し、口元を押さえて、手の中の牌を捨てる。そんなわずかな音が響くたび、村上さんはびくりと体を震わせた。
 肥った男が「チー」と呟き、揃った牌をまとめて脇に出す。それと同時に、村上さんが椅子から転げ落ちた。
「やめてくれっ…もう、下りさせてくれ…金なら払うよ。西さんにも都賀さんにも…何なら」
 狂ったような目が、こちらを向いた。そう思った瞬間、薄汚れた絨毯を膝で這い、村上さんが足下ににじり寄った。
「兄ちゃんにも…兄ちゃんにもやるよおっ…だから、赤木さんに頼んでくれよう…頼む…たのむ…」
 自分の喉から、ひいという間抜けな音が洩れた。必死の腕が脚にまとわりついて、逃げようにも逃げられず、椅子の背をつかみ、固まってしまう。
 赤木さんは、床に這った小男を、静かに見下ろしていた。
「兄ちゃん」
「はいっ」
 突然呼ばれて、椅子から飛び上がるところだった。
「こいつはこう言ってるが…どうする?」
「どうするって…」
 金なんて、もちろん貰えるわけがない。自分はまったくの部外者だし、こんなところでこんな風に貰った金、怖くて遣えない。
 そんなことをぽつぽつと言うと、赤木さんはうなずいて、椅子に座り直した。
「だ、そうだ。村上さん。続けよう」
 その言葉に、なおも喚き続けようとした村上さんの脇腹を、鋭い爪先が襲った。
 ぐえええ、と呻きを発して、小さな体が床を転がり、椅子の脚にぶつかる。蹴った脚の主は、一瞥もしない。
「いい加減、臭え演技はやめな。あんたはあんたの賭けたもんを払う。勝てばあんたが持っていけ。こっちの二人の後ろ盾は、セットで一億で買うそうだ」


 村上さんは、ぼろぼろの顔で席についた。手は震え、既に場の牌など見てもいない。
 一億。幾分予想がついてはいたが、やはり、途方もない金額が賭けられていた。セットで、というのは何だかわからない。宝石か何かなのかもしれない。
 しかし、村上さんは赤木さんに「五千万出す」と言った。それにくわえて更に、残りの二人、自分にまで払うという。
 それだけの金があるのなら、一億くらいなら、ギリギリ何とかなるのではないか。素人の甘い考えなのだろうか。
 そんなことを考えながら、村上さんの顔と、赤木さんの顔を交互に見やる。すると、赤木さんがにやりと笑ってこちらを見た。
「何だい、兄ちゃん、村上の小銭が惜しくなったかい」
「いや、とんでもない、そんなこと…」
 どうしていつも、簡単に心の中を読まれてしまうのだろう。金が欲しいと思っていたわけではないが、この人は、心の動きにやたらに敏なのだ。
「ただあの、賭けてるのが一億なら、村上さんさっき五千万出すって言ってたし…」
「かっ、金ならあるよ。すぐに用意できるのは半分だが、ちょっと待ってもらえれば…」
 必死の村上さんの言葉をさえぎり、赤木さんが言った。
「この勝負、誰も、金なんざ賭けちゃいない」
 村上さんが、殴られたようにへたり込む。あとの二人は黙っている。口を開くことを恐れているかのようだ。
「でも、あの、一億の価値があるもの、ですよね…」
「それは欲しがってるやつの値付けさ。兄ちゃんが貰ったって、クズみてえなもんだ」
 まるでわけがわからない。赤木さんは、既に何本目かわからない、新しい煙草に火をつけ、喫って、吐いた。
 煙がふわりと浮かび、音もなく薄れて消える。その先を追うように、目はどこを見ているのか知れない。
「…一千万だの、二千万だの、賭けりゃあ確かに目の色は変わる…だがなあ、金持ちの一億が捨て銭でも、貧乏人の十万が命銭ってこともある」
 それは確かにその通りだ。自分にも、十万はじゅうぶんに大金だったし、賭博に浪費するには躊躇われる金額だ。
「金額だけを耳揃えて張っても、一人一人価値は違う…賭場じゃあ、どんな虎の子でも、十万と一億を同列に張るこたあ、現実にはできねえ。脇に札束重ねてると、やがてそのことに気付く」
 赤木さんは煙草をもみ消し、こちらの目を正面から見据えた。
「金なんてものを賭けてると、だんだんとな、縒れっちまうのよ、勝負が」
 自分の背中が、雨に濡れた時のように、じっとりと冷えた。空調の効きすぎた室内なのに、にじみ出る汗が止まらない。
 この人は、金に価値があるとも、欲しいとも思っていない。他の誰かがそう言っても信じはしないだろう。だが、この人は。
「端を揃えてやらないと…面白くない。誰にとっても、ある程度同じ重さ」
 わかるか?と問われたような気がした。駄目だ、と脳の奥で警告がちらつくのに、見えない引力に引っ張られるように、尋ねてしまう。
「…なにを、賭けたんですか」
 返答はない。赤木さんは取り出した火のつけない煙草をくわえたまま、左手を眉間のあたりに掲げる。
 指の隙間から、愉しげな色がこちらを覗いた。


「目ン玉…」

 自分の喉の奥で、奇妙な音が転がった。
 寒気がするのに体があつい。えも言われぬ感覚が、首の後ろを駆け抜ける。このテーブルに乗っていたのは、札束でも宝石でもない。人の、目玉。
 ひとつ間違えれば、悪い手が来れば、失われる。その円い玉が、可笑しげに瞬く。
「酔狂だがな、赤木しげるの目玉が欲しいって野郎が何人かいてよ。こっちの二人はソレを取りに来た代打ちさ」
「目玉、って。そんなもの、どうして、なんで」
 歯の根が合わず、語尾ががたがたと歪む。これは現実のことなのか。本当は皆して、自分をからかっているのではないか。しかし、雄弁な重苦しい空気は、この空間から除かれはしない。
「さあ。取ったら、液かなんかに浸けといて、飾るとか抜かしてたが」
 想像して、吐き気がこみ上げる。場の誰も何も言わない。それは、肯定のしるしだった。
「まあ、あんまり、趣味がいいたあ言えねえな」
 向かいの家の塗り替えた塀の色を品評するように、赤木さんが言う。この人の目玉が欲しいと、言う誰かの気持ちがわかるような気が、ほんの少しだけした。
 人は、感動が欲しい。見たこともない、尊い何かが欲しい。嘘のような現実が、目の前にあらわれるのを見たい。
 例え手に入らなくても、その煌めきの欠片だけでもかすめ取りたい。そう思うのだろう。



 いくつかの局が過ぎた。途中で数えるのを忘れてしまった。時間の経過が、よくわからなくなっていた。
「カン」
 ぽつりと場に落ちる一言に、眼鏡の男は歯を食いしばり、肥った男は牌を倒しそうになる。
「即席でサマ打って、目玉を一個ずつ分けようなんてセコい腹だから、んな、人身御供に連れてこられた娘みてえにブルっちまうんだよ」
 赤木さんの軽口に、二人は言い返そうともしない。ここをしのげば逃げ出せる。それしか頭にないようだった。
 村上さんは、随分前から涙を流し続けていた。閉じられない口元は、涎で汚れている。
 勝負は、とうの昔についていたのだ。ここまで来てやっと、そう悟った。レベルが違いすぎる。覚悟も、胆力も、運も狂気も全て、段違いなのだ。
 当たり前のように、赤木さんは点棒を集めた。あがりを宣言し、牌を倒すたびに、全員が息をのみ、ありえない、何でそこでそう持って来る、と呻いた。麻雀がわからない自分には、何が凄いのかわからず、それがひどくもどかしくてたまらない。
 もどかしいのに、わからないのに、何か目の前でありえない仕業が行われていることだけは、濃厚に伝わる。
 赤木さんは、一人一人の恐怖をつまみあげて、気まぐれに手の内におさめたり、捨てて重たく波打たせた。鼻先で可能性を潰し、つながろうとした芽を摘む。それらが思い通りになる時、赤木さんの冷ややかな目は満ちて、足りる。誰かが祈りながら打った牌を捕らえ、食らうその指先は、猥褻ですらあった。
 冷えたタイルのように敷かれたいくつもの牌の連なりが、巡るたびに形を変えて、生きて脈打つ。
 麻雀を知れば、この人の凄さを、もう一歩近寄って眺めることが出来るのだろうか。
 そう思うと、赤木さんの前に並んだ小さな牌が、まるで手の届かない宝物のように思えた。



「それだ」
 ロン、と言う赤木さんの声に、場が引っ張られたようにぐにゃりと歪んだ。村上さんの指先からこぼれた牌が、パタリと倒れる。
 赤木さんが倒してみせた手を全員が覗き込み、眼鏡の男はまぶたを手で覆い、安堵したように大きく息をついた。肥った男は椅子の背にもたれ、マラソンを走ったあとのようにぐたりと呼吸を重ねる。助かった、という掛け値無しの本音が、疲労し切った二人の姿から流れ落ちた。
 いくつかの視線が、ゆるゆると村上さんに集まった。それから逃れるように、村上さんがふらりと立ち上がる。上から糸を引っ張られているような、人形じみた動きだった。
 今まで飾りのように立ち尽くしていた男たちが、すかさず動き、村上さんを囲んだ。こちらに背を向けた村上さんは、ゆっくりと床に崩れ落ちる。
「金なら払うよ…金ならある…金なら…」
 赤木さんはだるそうに椅子を後ろにずらし、肩に掛けていたジャケットを羽織った。
「金は要らない。賭けたものを払うんだな」
 蒼白な顔に、顎がだらりと落ちた。人間の声とは思えない、ごぼごぼとくぐもった音が口から湧き出る。正気を失ったそんな様子が、今更に不憫にも思えて来る。
 赤木さん、と言いかけると、待ち構えていたように目が合った。
「兄ちゃん、この男、金持ってそうに見えるか?」
 村上さんを顎の先で指し、そんなことを言う。
「…」
「遠慮しねえで言えよ」
「…失礼かもしれませんが、あんまり…」
 着ているものはスーパーで見かけるような安物だし、風采のあがらない、気弱そうな、ごく普通の男という印象だ。あとの三人に比べて、迫力もまるでない。ヤクザにも見えない。
「そうだろう。誰だって、こいつをナメてかかる。だがな、それがこいつの武器なのさ」
「えっ」
 思わず、屈強な男たちに囲まれ、這いつくばった姿を見やった。
「気弱そうな顔チラつかせて、ウラじゃ他人の命銭吸ってる、高利貸しだ。ちょっとしたもんさ。あんたが来る前にも、ケチなイカサマ、方々に仕込んでた」
「そんな…」
 身をすくめた、怯えた犬のような背中に、とてもそんな雰囲気はない。
「だが、オレにはそんなこたあ関係ねえ。ただ、賭けたもんは払ってもらう。それだけだ」
 そう言い放ち、あとはもう一顧だにせずに、赤木さんは席を立った。凝ってしまったらしい肩を少し撫で、首をぐるりと回すと、ゴキリと小さな音が鳴る。
 あわてて一緒に立ち上がると、今気付いたというような目で見る。
「おう、そうだった…兄ちゃん、礼を言おう。おかげでそれなりにツイたよ」
「いや、そんな…」
 言いかけたところで、悲鳴が耳をつんざく。黒い服の男が集まり、村上さんを抱きかかえるようにして、引きずって行こうとしていた。
 そんな背後の修羅場にはまるで頓着せず、何かに思い当たったように、赤木さんは視線をさまよわせた。
「本当なら、あんたにも分け前を払うんだがな…今日は賭けたもんが賭けたもんだ、現ナマが手元にねえ、と来た…」
 胸ポケットを探り、眉を寄せる。両手を突っ込んだズボンからは、わずかな小銭の音しかしない。一億賭けられた目の主は、現金の持ち合わせが無いようだった。
 まるで本気で困っているらしい様子に、自分の口が、信じられないことを喋った。
「なら、麻雀を、教えてくださいっ!」
 初めて、赤木さんの目が驚いたように見開かれた。まじまじと顔を見て、軽く吹き出したように笑う。
「オレは、人に教えたことなんざねえ…いい教師じゃねえぞ、たぶん」
「それでもいいんです。やってみたいんです、麻雀」
 この人が作り出す手の、端っこだけでもいい。理解したい。突き動かされるような思いに、勝手に胸が高揚する。
 赤木さんは、面白そうな顔でこちらを見ていたが、おもむろに視線をそらし、大股にすいと脇をすり抜けた。
 腕を伸ばし、外の階段に続く扉を押し開ける。カラン、と再びドアベルが鳴る。
 開け放ったドアを背に、赤木さんはゆっくりと振り向いた。
「やめた方が、いいな」
 え、と言葉がつまずいた。手招かれるまま、扉に寄る。
「雨はやんだ。おまえは、もうここを出た方がいい。外は雨上がりの、いい空気だぜ。行きな」
 見上げると、扉の向こうから風が吹いた。階段の上に、雨の音はもう無い。静かな夜があるだけだ。
「礼はこの店に預けておく。明日来れば、おまえに渡るように取りはからおう」
 そんな風に続けて、赤木さんはこちらに手を伸ばし、軽く肩を叩いて、外に向けて押した。
「そんな、赤木さんっ…」
 閉じられようとする扉に必死であらがうと、頭の上でドアベルがうるさく鳴る。
 その音にかぶさるように、キイイイ、と辛うじてまだ人の端にぶら下がった声が、奥の部屋から響いた。思わず、手に込めかけた力が鈍る。
 赤木さんが、テーブルの向こうをちらりと見る。
「そこで、やんのか」
 ただ、ぽつりとそう口にした。静かな眼差しには、なんの興味も関心も浮かんではいない。
 やがて、ぷつりと切れたように悲鳴が消えた。何かで口をふさがれたのかもしれない。くぐもった音がかすかに上下すると、今度は低いうなりが地を這い、途絶えた。


 ドアノブにかけた自分の手が、いつの間にかぶるぶると慄えていた。足はすくんで、根が生えたように動かない。
 すると、立ち去りかけた赤木さんの目がわずかに開いて、奇妙にまたたいた。
 向き直り、一歩、二歩、距離が迫る。うっすらと、眉のあたりから、何かがあらわになる。
 いま、人を食ってきたその指が、にょきりと目の前に伸びた。
 ふるえる手の近くをかすめて、閉じかけた扉をそっと押し開ける。頬の上を、冷えてかわいた空気が再び撫でる。


「来るか」


 小さな声が呟いた。
 細められ、笑ったようなその目の内には、足をつく底がない。


 さあどうぞ、というように、扉は大きく開け放たれた。うすい灯りを背にした赤木さんの影が、覆いかぶさるように闇く目の前を揺らぐ。
 喉は嗄れ、無邪気に噴き上がりかけた熱は、嘘のようにどこかに逃げた。


 湿気てぬるい表の風が、背中に当たった。ふるえの止まらない指先は冷え、色を失っていた。




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