終わらない物語

バッテリー〈6〉(教育画劇の創作文学)

バッテリー〈6〉(教育画劇の創作文学)


「バッテリー6」読みました。

以下、内容に関するネタばれはあまりしないつもりです。巧や豪に関して言及する気もないし。でも少しでも情報を目にするのがイヤ!って人はスルーしてください。
感想というよりはほとんど自分語りなので、そういうのウザい人もスルーしてください。





私はおととしの八月末、初めて「バッテリー」を読みました。サイトの読者さんがすすめてくれたのですが、実はそんなに食指は動いてなかったのです。姫がどうのとか言うのを聞かされて逆にひいちゃったクチで。図書館で一応探した時は4と5しかなくて、試しに4を見てみたら本当に主人公が姫とか言われちゃってたのでウワアと本を閉じたりしてました。

でも、本屋の店頭で一巻を見かけ、手にとり、冒頭からサラっと読み始めました。
そのまま百ページくらいまで読み進み、この時点で、この物語は私にとって強烈な何かを持っている、読まなくちゃいけない、読まないわけがない、読まない自分があり得ない。ということがわかったので、その時の有り金はたいて四巻まで買いました。五巻を買うには二百円ほど足りなかったのです。
家に帰り、読み続けた。その日のうちに四巻まで読んでしまった。次の日、本屋が開くのを待って五巻を買った。午後から仕事だったので、ギリギリまでかかって全部読み終えた。
それからずーっと、この物語は私を支配していました。最初の二ヶ月は苦しくてどうしようもなく、どうすればいいのかわからない日が続きました。五巻までをもう1セット買い、宅配便で友達のところに送りつけては読んでもらいました。何度も読み返したり、まったく読み返せない日々もあったり、顔に吹き出物が出来て治らなかった。脳がそれを考えることから逃れられず、糖分を欲しがり、普段はそれほど食べない甘いものを消費した。夜中にクッキーを食べたり、チョコレートケーキやアイスを食べたり。でも体重は減りました。苦しくて。
どうにもならない頭の中を一ミリずつ動かして、寄せて、かき集めて、引きちぎり、わしづかみにして、嚥下するみたいにして、バッテリーの、まあいわゆる二次創作的なものを、少しずつ、書きためていったりしてました。最初の方のを読むと、そんなに苦しかったのか、というぐらい混乱していて、とりあえず細切れの思いをぶちまけただけの代物で、言葉足らずで、ぼろぼろです。
わからないことは書けず、わかることは何ひとつなかった。
そういう生活は、今も続いています。
バッテリーは6で終わると聞いた私は震えるほどに安堵していました。これ以上続けられたらわたしは保たない。良かった、6で終わると。
早く読ませてほしかった。楽にしてほしかったです。しかしなかなか発売予定の声は聞こえない。去年の夏頃、来年の一月に出るというニュースが入ってきました。遠い。でも、ついに今日来てしまった。
今日は仕事は休みなのです。それに感謝します。バッテリーの6を初めて目に映す、心に入れる瞬間は一度きりしかない。記憶喪失にならない限りもう二度と訪れない。ゆっくりと、時間をかけて、なにも邪魔されずに読みたい。
でも読むのが恐ろしく、書店で購入した後他の雑誌を立ち読みしてみたりして。
心を動かされるのは恐いです。自分がどうなってしまうかわからないと思った。6の発売のニュースが出るずっと前、バッテリ仲間の友人と「バッテリ6出たらどうする?ゆっくり読みたいね」「会社休むよ!なんのための有給だ」「出たら私たち、どうなっちゃうんだろうね」と語り合ったことを思い出した。

うちに帰り、ベッドに入って、ゆっくり時間をかけて、同じ文を何度も読み返したりもして、誰にも邪魔をされず、ほぼ二時間ぴったりで読み終えました。十一時から一時。読み終わった直後に昼ご飯を食べました。

まだ一読しかしていません。これからまた違う何かが自分の中に生まれるかもしれないけれど、今感じたことを残しておきたいので書きます。

 

バッテリー (2) (角川文庫)

バッテリー (2) (角川文庫)


作者のあさのさんが文庫二巻のあとがきで「(巧を)描き切れなかった」と書いていました。読んで、その意味がわかりました。描き切ろうとしたのだとしたら、描き切れてはいないのだろう。終わっていない。でも、あさのさんはこの作品をもって「バッテリー」の終わりだということを選んだのだ。
その判断は正しい、と私は思います。
「バッテリー」は原田巧が主人公だけど、原田巧の物語ではない。最終巻は特に、それがありありと感じられました。あさのさん本人がどう思っていようと、どんなに原田巧を描くことに拘泥しようと、私は「バッテリー」という作品は原田巧のための物語だとは思いません。原田巧はそこにいる。けれど、一人では「バッテリー」という話は紡がれない。
原田巧は、描かれるんじゃなくて、そこに居るのです。その他の登場人物たちと同じように、そこに居る。描こうとすればするほど、周囲の人物たちが動く、原田巧だけでない「バッテリー」という世界が構築される。そうやって六巻が生まれたんだろうなと思います。

この続きを書くことは可能だろうけど、それはたぶん「バッテリー」とはまったく異なった話になるんだと思います。

 

バッテリー 3 (角川文庫)

バッテリー 3 (角川文庫)

文庫三巻収録の「樹下の少年」を読んで思ったことなのですが、この短編は「バッテリー」じゃないな、と。言い方が悪いですが、作者のする自作の二次創作のように感じました。悪い意味ではなく、「バッテリー」とは違った作品なのだという意味合いでです。
「バッテリー」はこれで終わりで、こう終わってくれて良かったと思います。
あさのさんはインタビューで「六巻は中途半端な終わり方」と言っています。あとがきでは「書き手としての敗北を感じた」とも。そうだろうな、とは正直に思います。
確かに中途半端かもしれません。終わっていません。でも終わり。終わらずに終わってくれて、よかった。

とりあえず、最初の感触だけを、こうして残しておこうと思います。
私がこの世の中で一番大切な小説は、「バッテリー」です。たからもののような作品に出会えたことを、感謝しています。

 

バッテリー (角川文庫)

バッテリー (角川文庫)

 
バッテリー (教育画劇の創作文学)

バッテリー (教育画劇の創作文学)

ハードカバー版、挿絵が素晴らしいんですよー。
文庫1の表紙の巧にはやられたなあ。意味もなく三冊買いました。