子どもなりの結論
id:miu187:20040929での高河ゆんについての思い入れを拝見して、あああ!と大変なつかしい心持ちになりました。
高河ゆんにハマっている、今まさにその時の人の言葉というのをもっと聞いてみたい。あなたはこの作品のどこに魅力を感じるのか。どこに共感したのか。どこが一番好きか。どの台詞が一番好きか。
miu187さんは、高河ゆんの独身時代と既婚時代の作品の違いを大人と子どもという切り口で書かれていて、私も前回の高河ゆんについての話の時に「基本的に高河ゆん世界の住人は全員子ども」と書こうと思ったんだけど、「大人」「子ども」という分類の仕方はまだ私の中で未整理だったので、しなかったのでした。
全員子どもというとやや語弊があって、メインキャラが子どもというべきかもしれません。子どもという言い方が悪いなら、内部と外部。外部はメインキャラとしては描かれず、顔はいかにもモブキャラみたいな描き方で、目が小さかったり、眼鏡の中が描かれなかったり。外部キャラは内部キャラ(子ども)を迫害したり、嫌悪したり、理解できないと呟いたりする。
主人公の敵キャラであっても、高河ゆんルール(大事なものがある、それに従って生きている)の適用範囲内にあるキャラは「内部」であり「子ども」です。子どもたちは、外部(=大人)に傷つけられたり、迫害されつつも自分の大事なものを大事だと言うために進んでいく。これが基本コンセプトだと思います。
『アーシアン』はみんな子ども。ちはや影艶はもちろん、物語のポジショニング的には大人として描かれているミカエルやラファエルも、ちはやや影艶の見えないところでは子ども。
『源氏』なら克己が子どもの代表格だけど、義経も弁慶も基本的には子ども。もちろん、桜や清盛(兄/弟)も子ども。唯一メインキャラで大人(的立場)と言えるのは頼朝かもしれません。
『REN-AI(CROWNじゃない方)』は、久美や理真や真吾は子ども。子どもじゃないのは、久美の父親や理真の母親(こっち、出てきたっけか?)
しかし、新しく描かれた『CROWN』の方では、久美の父親は美形キャラになり、理真の母親も理真にそっくりでだらしない母親としてメインキャラとして登場します。前作では彼らは子どもである久美たちと衝突する外部=大人であったのに、『CROWN』では大人キャラではなく、価値観の違う子どもキャラになってしまう。だからmiu187さんは強く違和感を感じられたのでしょう。
久美と久美の父親が同等の子どもキャラになってしまうと、最初の『REN-AI』の時の久美の父親(ビジュアルは普通のおじさん。眼鏡の中が描かれていない)への叫び(家族でも僕の痛みはわからないだろう、と叫ぶ久美に父親が「それをわかる人がいるというのか」と聞くと久美は「いる」と答えるが、その下のモノローグで顔を両手でおさえ「だめだ ごめん 傷つけた」と心の中で呟く…手元に原本がないので細部間違ってるかもしれません)が意味をなさないものになってしまう。個人的にあの場面が好きだったので、久美の父親が美形キャラになっちゃったのはほんとショックでした…
みーんな子ども、になっちゃえばあるのは価値観や立場の違いだけで、迫害するものされるものの構図がなりたたなくなってしまう。結果、物語に緊張感がなくなる。『CROWN』は立ち読みだけしかしていない私が言うのもなんですが、単行本を買う気にならなかったのは事実。