赤木しげる-Wusopedia


おおきな声で先に言います。

ネタですから。

注意:このページ「赤木しげる」は、完全な捏造をもとに作られているまったくの嘘であり、ネタです。現在の記述内容はおおむね正しくありません。絶対に信用しないでください。

赤木しげる
出典: 腐リー捏造事典『うそペディア(Wusopedia)』



赤木しげる(あかぎしげる、本名同じ)は日本の雀士。1945年生ー1999年9月26日没。
趣味はゴルフ。好物はふぐちり、ふぐさし。東京生まれとされるが、素性、家族構成などは明らかにされていない。

並外れた度胸と強運を武器に数々の伝説的な勝負を乗り越え、「100年に一人の天才」「神域の男」と呼ばれた天才雀士。裏社会のトップとして君臨した期間は約三年とわずかではあるものの、華麗な打ち筋、眩しいほどの存在感でもって、没後もカリスマ的な人気を誇る。その「本物の無頼」と称される生き様は、今も多くの男たちを虜にしてやまない。
評論家の平山幸雄が『赤木しげるは菩薩である』という著書を発表するなど、多くの文化人・著名人・政治家にもファンを持つ。写真家篠山紀信が赤木を度々モデルにして印象的な写真を発表していたのも有名。

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1 経歴

1.1 十代〜二十代
1.2 三十代〜四十代、その後
1.3 タモリ、たけしとの交流

経歴

13歳の少年時代に、とある雀荘に逃げ込み、そこで行われていたヤクザ絡みの麻雀勝負に関わりをもった事から裏世界へと身を投じることとなった赤木は、当時その世界で5本の指に入るといわれた代打ちをも倒したことで一躍その名を知られる事となる。
当時のキャッチコピーは「博に目覚める13歳」。この頃から「赤木しげる伝説」が始まった。
デビューした当時は比較的目立たない存在だったが、1958年『ひと夏の経験』がヒット。年端のいかない少年がイカサマ行為を連想させる際どい内容を歌うという、いわゆる雀鬼ソング路線が話題になり絶大な人気を獲得する。歌詞の内容は際どかったが、セクシー路線の歌手と違い、赤木は年齢が低くビジュアル面では清潔な少年というイメージだった。サマとビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、赤木の人気を独特なものにしていったと言えるだろう。
だが、盲目の代打ち市川との戦いののち、周囲の期待を捨て、自ら忽然と姿を消す。

19才の頃、いくつかの職場を転々としながらも、真っ当に働いているところを発見される。だが、勝負への渇望を塞き止められていたためか、「辻斬り」と呼ばれ、素人玄人構わず喧嘩をふっかける危ない男として名を馳せていた。
赤木はやがて賭博場に顔を出しはじめ、あまりに勝ちすぎたために殺されそうになるが、13才の頃のデビュー時に代理人として契約をしたマネジャー・安岡が赤木を見つけ出し、九死に一生を得た。
その安岡と、稲田組の仰木のプロデュースのもと、当時闇の帝王として圧倒的な経済力を誇った鷲巣巌と「鷲巣麻雀」で勝負する。
その後、血を抜き取られた若者の死体が相次いで見つかった事件との関係が暴かれ、世間の関心を呼んだ。
「鷲巣麻雀」に勝利したことにより、赤木の博才は不動のものとなり、以降、「国民的美雀士」をキャッチフレーズに、死ぬまで雀士としての道を歩み続けることになる。
再デビューしてまもなく、勝負で負った傷が元で頭部を手術、入院。その際髪を刈る必要があったため、長めだった髪をバッサリ切ってしまった上に、服装にあまり頓着せず、赤木を気に入った裕福な支援者から貢がれるいかにもチンピラ然としたファッション(派手な柄のシルクのシャツに、ダブルのスーツなど)をそのまま着てしまっていたため、あわてた事務所は大きく路線を変更し、13才デビュー時の「澄んだ目をした少年が信じられないような胆力で博打を打つ」ギャップ路線ではなく「見るからに無頼派」なキャラクターで、ニックネームを作らず「赤木(アカギ)」の名字のままで売り出し、「名字で呼ばれるアイドル」の先駆者となった。これ以後、おニャン子クラブのメンバーや荻野目洋子(オギノメちゃん)などが後に続き、現在は名字呼びのアイドルは普通となっている。
もともと13才時にして既に「清潔」「澄んだ目」の路線は相当無理があったため、この路線変更は正しい判断であった。
フジのテレビドラマ「東京タワーは知っている」でドラマデビューを果たし、TBSのテレビドラマ赤いシリーズ(いわゆる大映ドラマ)でも好演。ブロマイドの年間売上成績で第1位に輝き、俳優としても歌手としても評価され、名実ともにトップアイドルとなった。

なお、全日本国民的美雀士コンテスト出身だと思われていることが多いが、実際は赤木が再デビュー時「国民的美雀士」をキャッチフレーズに売り出し、世に言う「美雀士ブーム」を巻き起こして成功したことをきっかけに作られたのが当該コンテストであり、赤木はコンテスト出身者ではない。だがのちに「美雀士最強トーナメント」が行われた際には、問答無用のトップでグランプリを獲得している(あまりに点差がついてしまったため、その後は参加を控えている)。


三十代〜四十代、その後

一躍トップアイドルとなった赤木だったが、名声・権力・金銭にはまったく興味を示さず、トップに君臨したのはわずか三年ほどであった。
雀界ではその後も無敵・不敗を邁進し続けたが、1989年(44才)、当時上り調子であった若き雀士・天貴史との戦いで、初めて土をつけられるという事態に遭遇。のちに天らと共に、関西の雀士たちを相手に「東西戦」と呼ばれる戦いに挑むが、相手側のイカサマを見破るもイカサマ自体に不備があり、それを予見できず敗退、自ら脱落を選んだ。
このように、四十代に入った赤木の勝負には、持ち前の強運に若干の翳りが見られるようになる。
しかし、それらの敗北にも赤木のカリスマ的人気は衰えを見せず、あまり表舞台に顔を出さなくなってからも、写真集・語録などの関連本が相次いで発行され、ベストセラーに名を連ねた。
1980年発売の写真集「アカギ」(Aka-Gi、篠山紀信撮影)は人気絶頂時で、いつもスーツもしくは長袖シャツ姿でガードの固かった赤木が初めて露出(とはいえ、半袖もしくはシャツの前を開ける程度ではあったが、それでも貴重なショットではあった)した写真集で大ヒットし、150万部のベストセラーとなる。東南アジアなどでは海賊版も出回った。
1986年には、41才にしてNHK朝の連続テレビ小説「はね牌」の主演に抜擢。平均視聴率は40%を越え、老若男女をお茶の間に釘付けにした。
1989年に舞台『蒲田行進曲』(1990年に再演)に出演。「彼には教える事が何もない」「彼は雀界の白い悪魔である」「天才であり堕天使である」「彼は魔物を持っている」と、つかこうへいをして言わしめた。その演技に対しては“つか作品ファン”をはじめとした舞台通からも絶賛され、これにより赤木の演技力は、幅広く認知されることとなった。その後も多くのドラマ・舞台・映画などに出演。
CMにも多く起用されている。日経MJ調査「CMに起用したい芸能人」男性部門の上位に何度もランクインしている。キリン「午後の紅茶」CMでは着流しで縁側に横たわる姿でファンの感動を呼び、最後の出演CMとなったグリコ「ポッキー」CMでは、これまでのイメージを覆す豊かな表情とステップで話題になった。
伝説の数々は漫画化(「アカギ」福本伸行近代麻雀コミックス)・アニメ化(「闘牌伝説アカギ」)もされ、人気を博した。また、児童向けアニメ「ザ・グレートギャンブラー」のモデルと言われているが、作品自体は赤木しげる本人のイメージと大きくかけ離れているため、熱狂的なファンには黒歴史とされている。

人物

・口数が少なく常に冷静で、一見冷めているようでもあるが、自分自身が持つ力と感性に、自らの命までを賭ける、異常なまでの精神性と情熱を内に秘めている。武装したヤクザにすごまれ、命が危険にさらされようとも自分の信条を曲げない屈強な精神は、死に際まで失われることがなかった。
・十代〜二十代の頃は他人を一切寄せ付けず、孤高の存在というイメージが強かった。だが、三十代後半を過ぎてようやく自身の器量に年齢が追いついたのか、ある程度の距離は保ち続けるものの、他者と関わることも多くなった。
・台本をまったく読まない・覚えてこないことで有名だが、ひとたびカメラの前に立つと要求以上のパフォーマンスを見せる。また、若い頃場数を踏んだ喧嘩の経験が生きているのか、殺陣は絶品。運動神経は抜群とされているが、本人はあまり動きたがらない。
・バラエティ番組においても基本無口であった(ただしタモリ司会者の場合だけは良く喋る)。わざとやっているわけではなく、他人の反応を見ている方が面白いらしい。ユルいリアクションに対する突っ込みは冷静かつ手厳しいが、意外に天然の素質も持っており、お題に関する答えにもシュールかつ難解なものが多く、共演者や観客がついていけないことも多々あった。
・プライベートに関しては没後の現在もまったく明かされていない。何処に住んでいたかも不明であり、定住せず各地を転々としていたと言われている。勝負以外の仕事のドタキャンもしばしばだったが、ファンには「赤木らしい」と喜ばれてしまうこともあった。ふところには札束を持っていることもあれば、小銭しか持ち合わせのないこともあった。初めてタモリと出会った日に持っていた二百万円を使い果たし、その日泊まる場所さえなく公園のベンチで寝ようとした赤木を見かねたタモリが自宅に一晩泊めたというエピソードも有名。


タモリ・たけしとの交流

デビュー当時のまだあまり有名でない頃のタモリと居酒屋で偶然知り合い、タモリの持ち芸「四カ国語麻雀」を大いに気に入り、その時たまたま代打ちの報酬としてふところに持っていた二百万で、その場にいる全員に大盤振る舞いをしたあげく、一晩で使い果たしたというエピソードが、タモリの口からよく伝えられている(「ビストロSMAP」に赤木が出演した際は、居酒屋ではなく雀荘で知り合い、その後銀座に移動したと語っている)。
その後もなぜか偶然に出会うことが多く、互いに有名になってからも、赤木が死ぬまでその交流は続いた。
赤木は通常、どんな番組に出演してもあまり喋らず、マイペースにあらぬ方向を眺めていることが多いため、司会者泣かせとして知られているが、タモリが司会をする番組に出演すると、いつもタモリに小さなちょっかいを出して進行を邪魔をするという稚気を見せ、タモリと親交が深いと知らないファンを驚かせた(余談ではあるが、明石家さんまには「からみにくい相手」として苦手視されていた)。
タモリ倶楽部」でのタモリと差しの居酒屋トークは、その台本無視のダラダラ進行とプライベートトークが逆に話題となり、好評を博した。
また、賭博以外にまったく趣味のない赤木にゴルフを教えたのもタモリであった。

ビートたけしとは当初仲が悪いと思われていたが、のちに何度もたけしが自分の映画に赤木を起用していることから、不仲説は語られなくなった。だが、テレビではたけしが赤木に悪態をつき、赤木は無言でそれを聞き流しているといった姿が良く見られた。
たけしの浅草での前座時代、もしくはそれより以前に面識があったとも言われるが、定かではない(だが、両者ともこの噂を否定していない)。
「その男、菩薩につき」では激しい暴力表現が取り沙汰されたが、赤木の殺陣の上手さにはスタッフが舌を巻いたという。もっとも、監督であるたけしには「こんな台詞おぼえてこねえやつ見たことねえ」と何度も発言されている。
クエンティン・タランティーノも自作への赤木の出演を交渉中であったが、実現されることはなかった。


この項目「赤木しげる」は、雀士に関する書きかけのネタです。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています。(Portal:雀士 / うそプロジェクト 雀士)

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ハラさん銀と金を読んでくださったのがとても嬉しかったので、「アカギ」のwikiはもとより、たくさんのwiki項目をざっと切り貼りしてアホなものを作ってみました。年代的にメチャクチャなのはわざとです。ところどころ文章のつなぎめが変なのは頭が足りないのでしょうがないのです。原作に関連する部分で違う部分がありましたら、言っていただければ速攻直します。途中までなのは力尽きたのとネタバレを避けてのことです。wikiを作っている人たちって本当にすごいです。本当にありがとうございました。
信用する人など居るわけはありませんが、絶対信用しないように。ネタです。
*なぜ突然タモさんとたけしが出て来るのかは前の日のエントリ参照


なんでいきなりこんなことをしたかって?
そりゃあ…
今日発売だったおお振りの新刊に、桐青ネタの書き下ろしが一ミリもなかったからさ…
せんせいっ…そりゃあないっ…!!

*関係ないんですけどどうも前の日のエントリとこのエントリを窓のIEで見るとフォント指定がおかしいらしいんですが…MacfirefoxsafariIEではおかしくないんだけど… 他に、表記が全部青い字になっちゃってるように見える方とかいらっしゃいますか?