『アカギ』〜闇に降り立った中二病


かかったかなと思ったら?中二病
こんばんは、emifuwaです。

えー、お宅のお子様がこういうことを言い出したら、それはもう間違いなく中二病ですので、お母様方は気をつけてあげてください…




先日のエントリで「アカギは会う前から鷲巣を同類呼ばわり」という話を致しましたところ、「でも、(市川さんの例もあるし)まだ鷲巣がアカギと同類だと決まったわけではないですよね」というご意見をいただいて、ちょっと虚を突かれました。

というのは、アカギが鷲巣にご執心だということはとりあえず置いておくにしても、『アカギ』全体の話の流れからすれば、鷲巣というのはアカギと同類でなくてはいけないからです。市川の時のように「同類?違う…?ブツブツ」とかそういう段階は既に通り過ぎている。

鷲巣が(あくまでアカギの思い込みによるものですが)アカギと同類である、特別な敵であるということは、原作での鷲巣戦前の特別な描かれ方によって読み取れます。
8巻で、鷲巣邸の前に立つアカギの場面。「アカギ…… 遂に立つ……!」「究極の敵…… 鷲巣の前に……!」というナレーションがあります。この場面はアカギ視点のモノローグではなく、神である第三者視点のナレーションです。アカギの思い込みとは何ら関わりなく、アカギにとって(少なくとも『アカギ』のアカギにとって)鷲巣巌は「究極の敵」なのです。
『アカギ』は、週刊少年ジャンプなどでよく見られる、敵キャラが際限なく強さインフレを起こすようなタイプのマンガではありません。ここでの究極の敵は、文字通りの意味でしょう。作者である福本伸行はネームに非常にこだわる漫画家であり、「究極の敵」という表現を軽々しく使っているとは思えません。
それを考えると、『アカギ』は鷲巣麻雀編をもって終了するか、仮に続いたとしても、その後に鷲巣を上回る「究極の敵」があらわれるとは、考えにくいです。鷲巣巌の「特別さ」は、麻雀の強さではなく、アカギと同じように狂っており、アカギと同じように、凡人と違った領域の強さ(剛運)を持っているということです。鷲巣の強さ弱さとは関係なく、アカギにとって、鷲巣は「究極の敵」であることは動かし難い事実です。
そして、『アカギ』における「究極の敵」とはアカギと「同類」でなくてはいけない。

これでまた「やっぱり同類じゃなかった」ということになると、ストーリー的には、アカギはまた「同類探し」をしなければならなくなる。話が鷲巣編で終わらなくなる。本人の絶望も大きいでしょう。一番悪くすると、自分を超える人間などいない、と驕り、第二の鷲巣巌になってしまうんじゃないでしょうか(*実際にそういう展開があり得るとは思っていません)。
「同類かそうじゃないか」というのはそもそも幻想であり、アカギの思い込みに立脚するものです。アカギはこの「同類探し」にこだわっていたせいで、19才のあたりで袋小路に落ち込み、死にかけたのだと私は考えています。
鷲巣麻雀戦とは、アカギが自らの同類である鷲巣(=自分の中の幻想)に引導を渡すことによって、自分もその袋小路から脱して自由になる、という話なのだと、私は考えています。
『天』では赤木しげるはもう「同類探し」はしていません。異端である、狂っている、無頼である…自分と近いということが価値観の全てではなく、その人なりの強さを尊重できるようになり、他人と適切な距離を取れる「大人」として描かれています。だからこそ、仲間や友人(本人がどう思っているにしろ)といえるような存在が周囲に出来たのでしょう。



さて、『アカギ』。私はこの作品を、赤木しげるの生涯における中二病だと思っております。

中二病とは


中学2年生程度の屁理屈で社会を否定し、結果何の行動も起こさなくなる病。特に引篭もり患者に多く見られる。重度の患者は勝手な思い込みから社会の規律に反した行動を引き起こすため、早めのケアが必要。闘病患者としてタレントの伊集院光氏が有名。(未完治)

はてなキーワード中二病」項目より)


基本的に中二病は、第二次性徴期における自我の発達が行き過ぎたものでしかない。『他人とは違う自分』『もう子供ではない自分』『汚い大人ではない自分』を他者に対し強調する自意識過剰からくるものであり、個性的どころかよくある、誰でも通る道に過ぎない。

中二病-Wikipediaより)

もちろん、赤木しげるが本当に(昨今良く言われる種類の)「中二病である」と言いたいわけではありません(実はちょっと言いたい気持ちもありますが、それはさておき)。ですが、「誰もが通る道」としての中二病的な時代を、アカギだってくぐっているのです。
他の人と違うのは、アカギが真に「天才」であり、「異端者」であったこと。またその方向性が突き抜けすぎていたので、アカギは中二病をこじらせたまま、19才になってしまった。
相変わらず、アカギは誰にも理解されることもなく、人は皆、少し関わっては「この男は自分たちのような凡人とは違いすぎる」と身を引く形で、去っていきます。
頭は人一倍切れ、度胸もあり、喧嘩も強い。何でも出来てしまう。「人生に飽いている…!」やたら人生の虚無について語り出したら、それは中二病の症状です。お母様方は気をつけてあげてください。
いつまで経ってもそこから抜け出せず、自分を燃え立たせてくれるような相手には出会えない。眠れない午前二時、苛立ちがドアを叩くものですから、「辻斬り」なんてやっちゃうわけです。やりたくてやっているのではなく、ほかにやることがないから、仕方なくやっているのです。
それが嵩じて、危うく賭場で命を落としかけるハメに。病院で安岡に説教されて、答える台詞は明らかに中二病丸出し。もうこじらせまくって凝り固まっているので、今更ちょっとやそっとじゃ動きません。


ですがここで、一人の狂った男の存在を知らされます。想像もしなかった相手との勝負、遂に出会えた「同類」(*アカギがそう主張してるだけ)、いやが上にも高まる期待。
今まで多分その存在を知りもしなかった鷲巣に対して、アカギは即座に「同類…!」とピンと来ます。根拠はあるんだかないんだかわからないような、かなり思い込みに近い感じです。会ったこともない超セレブの闇の帝王に対して、一介の、何の背景も持たぬDQNが恐れ多くも同類呼ばわり。一人で鷲巣に脳内語りかけをしている姿は滑稽ですらあります。
対して鷲巣の方はと言えば、アカギを「他に類を見ない存在」だと認めてはいるものの、(アカギが鷲巣に直接「同類」に関して言及していないのもあり)自分と「同類である」とは毛一筋ほども考えていないと思われます。鷲巣的にはそのカテゴリ分けはたぶん心外でしょう。
アカギの方が勝手に鷲巣に感情移入してるあたりが、中二病っぽい。これはあれですね、「本当の親友探し」とかと一緒ですよ。中二病の代表的な症状です。
滅多に長いモノローグとかしない癖に、鷲巣に対してだけは何ページも使って心で語りかけてますね。アカギだと思わないで客観的に見るとぶっちゃけキモいですから。あんたが勝手に同類呼ばわりして語りかけてる相手をどこの誰だと思ってるんですか!鷲巣さまですよ!鷲巣巌!昭和の怪物!闇の帝王!普通だったらお話すら出来ないようなお人ですよ。勝手に自己同一化すんなっつーの!私物化すんなっつーの!それただの思い込みですから!ほんとキモいですから!
自分の同類なんていない!とか言いながら、アカギが、理解者、つまり自分のDQNさ加減と付き合ってくれる相手、向き合ってくれる対象を探しているのは明白です。だから「もしかしてこいつは…」と思った市川が簡単にヘコんでしまったことに絶望し、行方をくらますというわかりやすい午前二時、苛立ちがドアを叩く、…って今、適当に書き足そうと思って「RUNNING TO HORIZON」の歌詞を見返したら意外とハマってて吹いた。
アカギは当時13才で、まさに中二病ど真ん中の年齢です。あのアカギでさえ中二病めいたものを患うのだと思うと、彼が急に身近な存在に感じられてきませんか?神域だの何だの他人に言われてはいても、どんなに万能に見えようとも、彼は悪魔ではなく、神でもなく、生きて血の通った人間です。思い通りにならないことも数多くあり、絶望することも、負けることもある。年を取ればやがて死んでいく、ただの人間なのです。


というわけで、『アカギ』というのは、赤木しげる中二病をこじらせて悩む様を描いたストーリーなわけですが、最終的に自分が「同類」とみなした鷲巣を破滅させることによって、ついに中二病を卒業する話、だというように私は考えております。
同類である鷲巣が囚われている苦しみ、なぜ自分は満ちないのか、なぜ死んでいくのか、という疑問に「人が生きていくことに、解答なんかない」と答えを出してやることによって(*自分のイタさには気づきにくいですが、誰しも他人のことは良くわかるものです)、アカギは自分自身の同じ問いにも答えを出し、「赤木しげるという名の幻想」からいくらか手を放して、踏ん切りをつけることが出来る=中二病の卒業 なわけです。


えー、アカギが「中二病」だと思って『アカギ』を読み返すと、これが結構面白いので、おすすめです…アカギの真面目そのものなモノローグで思わず吹き出せます。『無頼伝 涯』の主人公、涯の心境の変遷なんかと合わせて読んでも興味深いです。
まあほんと言うと、赤木しげるという人は死ぬまで中二病を貫いた人だと、思ったり思わなかったり。



一応最後に別の言い方をしておくと、「天才」赤木しげるは生まれながらに神であり、万能でした。でも万能であるがゆえに実は苦しんでもいました。万能であり、神であると、それより先に行くところがないからです。ですが、同じように神に近い鷲巣と出会い、彼に「もう死んでもいいよ」引導を渡すことによって、赤木しげるは人間になり、少し楽に生きていけるようになった。と、そういう話なのじゃないかと、現在のところはそう思っています。